「マリアは貧乏な、マリア・サヴァランである。」p.12
「まぐろどんは貧乏な、まぐろどん・サヴァランである。」
森茉莉『貧乏サヴァラン』(筑摩書房 1998年)の話をさせて下さい。
【概要】
家事はまるきり駄目だった茉莉の、ただ一つの例外は料理だった。
オムレット、ボルドオ風茸料理、白魚、独活、柱などの清汁・・・・・・江戸っ子の舌をとパリジェンヌの舌を持ち贅沢をこよなく愛した茉莉ならではなの得意料理。
「百円のイングランド製のチョコレートを一日一戸買いに行くのを日課」
に、食いしん坊茉莉は夢のと食卓を思い描く。
垂涎の食エッセイ。文庫オリジナル。
裏表紙より
※書きおろしではなく、前週から編者が引っ張ってきて一冊にしたものです。有名だから書き下ろしエッセイかとてっきり思ってた。
【読むべき人】
・贅沢したい人
・独り暮らし
・食べることが好きな人
・でも高いものはなかなか手が出ない人
・森鴎外推しの人
【感想】
なんとなくずっと名前は知っていてずっと読みたいとは思っていた。
ので、ブックオフオンラインでさあ今だ!と購入。さあ今だ!
森茉莉、というのは知っている人は知っている、
まぁシンプルに言うと森鴎外の娘である。
しかも鴎外さんは特段この娘に対して父馬鹿ぶりを発揮し、特段可愛がられて育った所ちょー箱入り娘*1なのである。無論嫁いだのもお金持ちのお家。
ところがどっこい10年余りでその結婚生活にピリオドを打ち、実家に出戻り。しばらく肩身狭い生活を送っていたものの、やがてはじめる一人暮らし。
尚そのころには、鴎外の著作権が切られ、今まで働かずにいてもがっぽがっぽはいっていた収入、打ち切り。茉莉は「貧乏サヴァラン」状態に。
困ったわあ・・・どうしよう・・・という訳でようやっと、文筆を握り始めたというまぁとんでもない波乱万丈の人生を歩んできた女なのである。
そのため、作家としてキャリアをスタートしたのは50歳を過ぎてから。
だから「知っている人」が想像する森茉莉はいわゆる「食いしん坊の元箱入り娘のおばあちゃん」こんな具合なのである。
そしてまぁこおのばあちゃん、書く文章が面白い。さすがは鴎外の娘といったところか。
箱入り娘と言えど今は細々文筆で金を稼ぐ身となった彼女。そのため食卓に並ぶものは決して豪華とは言えない。しかしその食卓に並ぶ食べ物を一口運べば、過去に留学した欧州のエピソードがつらつらと並び、10年間の結婚生活の「楽しかった部分」に思いを馳せる。そして時には「おばあちゃん」らしく近年の若者にぐちぐち言って、その愚痴をを安い葡萄酒で流し込む。
その姿には、一気に転落した可哀相な女・・・といったような悲哀は一切なく、逆になんかエネルギッシュなのである。
特に、彼女の考える「贅沢」観には感銘を受けた。
「ほんとうの贅沢な人間は贅沢ということを意識していないし、贅沢のできない人にそれを見せたいとも思わないのである」pp.34-35
おいおい見てるか。関東のご婦人共よ。
たまたま大手企業の旦那を捕まえたからってド白昼堂々ブランドもののバッグぶら下げてギンザ歩いてんじゃねーぞ!!庶民見下してんじゃねーぞ!!なーにがたまプラーザじゃ横浜じゃカリタスじゃハゲ!!!ああバカバカしい!!
・・・と、まぁ実際はそういう人たちにはワイドショー越しもしくは「月曜から夜ふかし」越しにしか会わないのだけれども、この森茉莉の「贅沢論」にはスッキリした。
「要するに、不格好な蛍光灯の突っ立った庭に貧乏な心持ちで腰かけている少女より、安い新鮮な花をたくさん活けて楽しんでいる少女の方が、ほんとうの贅沢だということである」p.37
加えてこれである。
「ほんとうの贅沢」を断言するすがすがしさよ!
金持ち≠贅沢。
これを元ちょー箱入り娘おばあちゃんが言うのだからああ本当にそうなんだなあと思う。ああ本当にそうなんだなあ。
加えて、現代の男の子(茉莉風に言うと「オトコノコ」)に対する批判もしているのだが、これまた僕ぁ感銘ウケてしまった。
「外側ではなく中味も現代のオトコノコは空洞である。現代のオトコノコの眼には、詩もなければ哲学もない。ハイネや、ショウペンハウエルどころのさわぎではない。ロマン的でもなければ知的でもない。ホットでもなければクールでもない。ラジオなんかに呼び出されて、何か訊かれると、どれもこれも「えへへへーーー」と力無く笑って、「わかんない・・・・」と答える。理想の女性は?と訊くと判を押したように「明朗な女性」である。
(中略)
何を訊いても、一般に流布している、誰でもが言っている理想や夢を、うわごとのように喋り、街でマイクを向けられても、ラジオのスタジオで訊かれても「エへへへ」と、空虚な、ゴム風船の空気が抜ける時のような声で笑うオトコノコが、震えがくるほど厭である。生理的に耐えられない。その後ろにある、自分の考えのない日本人の群はもっと、嫌いである」pp.57-60
かつて、
僕にも言い寄って来てくれたような男の子は、いた。
複数人、いた。
今でこそ全身カサブタでメンヘラで童貞(27・メス)ではあるが、まぁかつては、いた。
でもそのほとんどの男の子が、僕の言うことひとつひとつに、
「うんうん」
「そうだね」
「ウンまぁ凄く分かるよ」
なのである。
もううんざり。辟易とする。
僕は会話を交わしたい。「僕は××だと思う」と言ったことに対して「いやそうかな?」といったような返事が欲しい。僕をいくら祭り上げたところで僕はそこまで美人でもないし出来も悪いしお姫様じゃない。会話がしたい。議論がしたい。
だからついつい、「女は追われる方が幸せなのよ~」と知っていても、ついつい追う側になってしまうのである。
その男の子は大抵会話が交わせる男の子だから。たとえ交わせなくても、僕が彼を好きである以上はその無口も許してあげられるから。
だからこの部分にはもう同意しかなかった。
いや、でもまぁ僕に言い寄ってきたた男の子達は、茉莉の述べた「オトコノコ」の子供の子供・・・・子孫である。茉莉の言う薄っぺらいオトコノコに惹かれた女から生まれた更に薄っぺらいオトコノコにさらに惹かれた女から生まれた女と惹かれたさらにさらに薄っぺらいオトコノコの間に生まれた女の・・・薄まって薄まって薄まって・・・。
現代の男の子は、茉莉から見ればもう人間ではなく紙人形同然なのかもしれない。
そして茉莉は、「自分の考えのない日本人の群」はさらに嫌だと言っているが、まぁ僕はこれも自身を棚に上げついでに両手も挙げて「せやねんせやねん!」と同意したい。
僕の職場にもSNSにも通ってた大学の先輩にも昔のクラスメイトにもいるのだが、とにかくつまんない女も多い。
正社員で働いて社会保険と給与が保証されてればOK。そこで特にやりたいこともなくただただ毎日を喘ぎ名が凄し休日はスマホゲーにいそしむ。公務員に就職しSNSで毎週「女子会」「ランチ」に20代を費やす。
なんとなく就職して、なんとなく生活して、なんとなく結婚して、もしくはなんとなく結婚せず、なんとなく生きていく人たち。
自覚しないまま。
なんてつまんない人なんだろう、と思う。
なぜそこにいるのか。なにをしたいのか。どうしていきたいのか。どのように生きたいのか。常に問い詰めて生きていかないと、彼女達の間に流れる、あの目に見えない「流れ」に流されることになる。
だからといってその流れに過度に逆らおうとすると、社会から逸脱し、己では何も達成しなくせに斜め上目線でTwitterに愚痴をこぼす、ああいうつまんない存在になるのも嫌だ。アイデンティティは突き詰めすぎると本当にろくなことがない。
ああでも神様、僕は、あの流れに呑み込まれたくないんです。彼女達が日々社員労働にいそしんでいていそれだけで、僕よりかなり高い身分だし立派なのは知っています。僕には普通にそれを普通にこなす能力がなかった。それでもそれでも、あの、関東付近で溢れ出ている彼女あっちの笑顔の唇の端に浮かぶ口紅のトゥルトゥル・キラキラのような、薄ぺらい、あのなかに、全身をさらしたくはないんですああ神様。
「今がまあまあ幸せならそれでいい」に甘えたくない。
「精神をこめないと駄目である。
料理番組のしち面倒臭い料理はすべてばかげている。」.87
時々まあそういう「しち面倒臭い料理」に、心から憧れることもあるのですけれども。
200ページ足らずのこの本書のほとんどが、食・もしくはその食にまつわる昔の思い出が書かれているのだけれども、中盤茉莉が美術館に行き、そこでロココ調の西洋絵画を見て、思いを馳せる随筆が収録されている。
茉莉は作品に感銘を受けつつも、欧州の人々に血生臭さを見出す。
「そうして今日見た兎や雉の死骸や葡萄酒のある静物から、欧羅巴(ヨーロッパ)の人間の、私たちの国の人間より重くて強い個性と、私たちの国の人間の中の獣よりも強烈で生々しい獣を隠し持ち、或者は構わずにその獣を面に出していること、彼等の宴会が獣の肉と内臓、血、によって満たされていることと、どこかに宗教にの匂いが感じられたこととがやっぱり、そのときの不思議な感動に繋がり、結びついているのを明瞭、認めたのであった。」p.145
確かに、って思った。
欧羅巴は、確かに血生臭い。例えばそれは世界史を見てもわかる。新大陸における先住民の虐殺。黒人がぎっしり詰まったあの奴隷船。幾度となく繰り返される戦争。奪い合う領土。衛生観念の無い街並み。蔓延る伝染病。パンはキリストの肉。葡萄酒はキリストの血。という概念。
同時に、ああ、だから僕はこんなに西洋美術が好きなんだし、同時に日本史よりも世界史の方がとても好きで、大学も西洋史専攻とか実用性皆無学問選んだのかな、と思った。
清流の水。綺麗で澄ました目でスマートにやる、ことなかれ主義はうんざりだ。白身魚にいくら味の濃いソースをかけたって、それは魚料理なのである。つまんない。
濁流の血。濁った目で万物とにかく疑う、ことおこれ主義よ万歳。肉だ。肉。陸の生き物を陸の生き物である僕ら人間が食べることでそれはようやく血となり肉となる。
潜在的に、僕はその欧羅巴の血生臭さ自体に、魅せられていたのかもしれない。
まぁ週2くらいは魚料理食べたい日ありますけれども。
以上である。
非常に面白かった。
一色一色、贅沢な料理が出てくることはほとんどないが、そこから繰り広げられる茉莉の思い出やそれを朗々と語る文章は、非常に贅沢でとても読みごたえがあった。本書が編集されたエッセイ集にもかかわらず、広く名が知られているのも分かる。
あとまぁ、シンプルに、金がなくても美味しいものを食べている時間はかけがえのない素晴らしいものであること・・・、茉莉同様ボンビー独り暮らしの身なので、毎日の食に関して勉強になる、というか考えさせられる部分も多かった。たとえば茉莉が大好きな卵料理の部分とか。
どんなに辛くとも寂しくとも、サヴァランの精神を忘れるな。
手元に置いておこうと思う。
***
追伸
尊敬の念を込めて、森先生・茉莉先生ではなく「茉莉」と呼んでいます。そう「あえて」ね。
台所が汚いのも味が出るかなと思ってあえてそのままです。そう「あえて」ね。
本書の表紙の黒い汚れは、レトルトのイカ墨パスタのイカ墨です。人生で初めて食べた。まずかった。あんなもん「あえて」たまるかヴォケ。
***
*1:このエピソードを知っていると、文豪ストレイドッグスの「森鴎外」の肩に本来いるべき娘は、金髪碧眼容姿端麗のドイツの少女ではなく、黒髪たれ目食いしん坊の日本の少女なんじゃないかと思うね。