小さなツナの缶詰。齧る。

サブカルクソ女って日本語、すごく好きだったよ。

小川洋子『不時着する流星たち』-ロマンチックに狂う。-

 

 

 

10の物語。

 

静謐に幸福静謐に不幸。

 

 

 

 

小川洋子『不時着する流星たち』(KADOKAWA 2019年)の話をさせて下さい。

 

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ヘンリーダーガーを意識した表紙の絵。

【あらすじ】

盲目の祖父の足音と歩数のつぶやきがひとつに溶け合い、音楽のようになって僕の耳に届くーーー

稀代のピアニスト、グレン・グールドにインスパイアされた短編「測量」。

ほか、女優のエリザベス・テイラー、作家のローベルト・ヴァルザー等、

世界のどこかでひそかに異彩を放つ人々をモチーフに、

その記憶・手触り、

痕跡をひとつらなりの物語世界に結晶化。

静かな人生に突然訪れる破調の予感をとらえた美しく不穏な10の流星群。

 

裏表紙より

 

【読むべき人】

・どっちかというとバッドエンドの短編集がお望みの人

・小川先生の作品が好きで本作をまだ読んだことない人

・寂しい人

 

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【感想】

とても良い短編集だった。

最近読んだ小川洋子先生の短編集「偶然の祝福」がとてもイマイチだったのに対して、

本作は僕の心を掴み穿ち絶望させた。

 

10の物語の順番は、よく練られて配置されている。

「第一話 誘拐の女王」から本作は全体的に不穏な短編集であることを提示、その後カタツムリの競争や手紙をそっと置くだけのアルバイト、盲目の祖父の散歩等を経て、「第七話 肉詰めピーマンとマットレスで繊細な音楽は唐突に終わりをつげ、「第八話 若草クラブ」「第九話 さあ、いい子だ、おいで」盛大な不協和音が読者の心を震わせ、「第十話 十三人きょうだい」で静かに一冊は終わりを告げる。

第一話が「起」

第二話ー第七話までが「承」

第八話第九話が「転」

第十話が「結」

となるように緻密に計算している。

いや、「配置する」と前述したけれども、

もしかして「起」一話「承」六話(可能であれば六話目・トータルでいえば七話目の話は後の2話との落差をつけるためにハッピーエンドで結ぶ)「転」二話「結」一話

順番から考えて、一話一話書いていったのではないか。

 

コンセプトとなる人物も然り。

第一話は小川洋子が好きな人なら必ず知っているであろう孤独引き森障害童貞挿絵画家を配置して、第十話は名前すら知らない植物学者で静寂に締める・・・。

最初の主題はヘンリー・ダーガー、最後の主題は牧野富太郎、は決めてから書いたいったように思う。

 

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10、という数字も少し意味深に感じられる。

9の物語といえば、サリンジャーナイン・ストーリーズである。僕も読んだけども結構サッパリプーだった覚えがある。

そして11と言えば本作のモデルとしても登場しているパトリシア・ハイスミス「11の物語」である。未読。積読

その間の数字。

10。

に、すっぽり収まるように書いたのが本作なのではないか。

「日本を代表する女性作家の短編集」の一つとして、後世に残ることを意図して書いたのではないか・・・とまで言うのは過言かもしれない。

けれど「10」の数字の意図は明らかにサリンジャーとパトリシアを意識したものだと僕は思うのだ。

証左として、パトリシアのなかで「11の物語」は代表作の一つにも関わらず紹介文でその書籍については触れられていない。意識していることをあえて隠すためでは?

 

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東京行ったときに新宿の紀伊国屋で買ったはいいもののかれこれ1年以上積んでいる



 以下簡単に各話の感想を述べていく。

各話コンセプトとなる人物・物事について触れているので、そこをノータッチで読みた人には以下読まないことを勧めておく。

僕が一番好きなのは「第八話 若草クラブ」

 

第一話 誘拐の女王:親の再婚で出来た17も歳が離れた姉は、幼い時に誘拐された過去を打ち明ける。

誘拐という言葉の意味を初めて教えてくれたのは姉だった。p.7

 

小川洋子得意のロマンチック基地外がやって来る話である。

小川洋子得意のロマンチック基地外には、ざっくり言って以下3つの条件があるように思う。

 

1.社会的生活を営む能力がない

普通に働いて生活できる能力が彼等には決定的に欠如している。何故なら彼等は普通に狂っているからである。大抵病院にいるかニート、もしくはワーキングプアしていることが多い。

2.  外国人の写真を「昔の自分」となにかと見せてくる

「これは昔の自分だ」と言って、高確率で海外の人物の写真を見せてくる。大抵映っているのは美女で、古い白黒の写真であることが多い。無論見せてくるのは基地外の中でも女が多い傾向にある。というか彼女の各基地外の7割は女性な気がする。

3.今はもう会えない。

大抵彼等は今は会えない状況にあることが多い。主人公か「こんな基地外と過ごした日々最高やったわ」と話す形で進む短編が多い。大抵「美しい人だった」「無垢な人だった」「優しい人だった」みたいな感じで、+で捉えられている傾向。主人公の幼少時代に遭遇することが多い。

 

ちなみにこの「誘拐の女王」は満貫です。おめでとうございます。

あと、本作はヘンリー・ダーガーが主題だとは僕は最後まで読むまで全く気付きませんでした。まぁ大抵の物語がコンセプト元と無関係に築かれている物語が多いのですが・・・。

それでもあのヘンリーダーガーの独特の絵柄のドレスをまとって現れた彼女は、僕の中でもしばらく「女王」の座に座り続けている気がする。

要するに小川洋子世界によく現れる人物だけれども、この話にでてきた彼女のロマンティック狂気に僕は魅了されている。

「誘拐」。この二文字の並びを見るたびに僕は心の奥に彼女を召喚するのだろう。

 

第二話 散歩同盟会長への手紙:男は囲いの中を散歩する。心の中で手紙をしたためながら。

これ以上、他に何が必要でしょう。私には思いつきません。もう十分ではありませんか。世界を囲えば、そこにはまた世界ができる、と何かの本に書いてありました。p.41

今作はモデルとなる人物に最も接近して描かれた一編である。

精神病内を散歩し続ける男の内心が延々と書かれている。非常に繊細である男の心の平穏が緻密に緻密に書かれているので、読み終えると自身の心がどこかささくれだっていることに気づく。

与えられるものすべてに満足し生活を編んでいく彼を見ていると、己の日々と心がどれだけ粗雑なものなのか身をもって分からせられる。何も持たない彼が幸福でいるのを読むと、不幸を嘆く自らがとても愚かなものにすら思えてくる。いや、彼は狂っている。外れている。だから小さい囲いの中の幸せで満足できるのだそう分かっていても、自身の乱暴さが際立ってちょっと嫌だなぁと思った。

散歩する時、頭の中で誰かに手紙を書くという感覚は、とてもよく分かる。

それは大抵今では会えない人に書くことが多い。

例えば大学時代に鬱病を患った同級生、全力で片想いをしたが今はピンともこなくなった同級生、市役所に就職して結婚して絵にかいた幸せを紡いでいる要領のいいその同級生の元カノ。ゼミと卒業論文で主に世話になった教授。自殺したよく知らないサークルの先輩。かつて若く美しかった僕に想いを寄せていたっぽい人々。高校時代によく寝ていた僕を注意して来た先生達。結婚し司法試験も受かりもう僕から遠く離れてしまった同級生。高校中退した同じホルンパートだった先輩。高校を卒業し無事に国立音大へ行ったらしい先輩。小学校時代の中良かった子達。諸々。主に学生時代にまで遡るのは、僕の人生が順調だったのがそこまでだったからだろう。大学卒業後のことなんて、1の良い思い出に1000に暗い影が付きまとう日々だった。

でもそれは大抵1言、2言で終わる。「宮崎帰っていい人に出会えるようにな」「なんで今の君にはこんなにピンとこないんだ」「第一子まだかな」「今でも美術館に行きますがコロナで東京のは行けてません」「先輩の同人誌の作品混沌としててすきでした」「今の私を好きでいてくれることはないだろう。知らない人と添い遂げてくれ」「授業中ずっと寝ていた自分はやっぱり社会不適合者でした」「お前は早く結婚すると思っていた」「今何してるんですか」「LINEのアカウントの幼児はやっぱりお子さんなんですか」「ねえ今何考えてる。私はちょっと死にたいけど概ね大丈夫」

そしてその次にはこの一言で集結する。

「私の知らないところで幸せでいてくれ」

 

第三話 カタツムリの結婚式:選ばれた同志を見つけることに心を割いていた私(八か九になる頃)は、家族で訪れていた空港でカタツムリの競争をさせている男と出会う。

「こうびって、何?」

「結婚式だよ」p.81

このやり取り一つに、男の魅力総てが詰まっているように思います。

いや間違いなく空港のトイレの前でカタツムリを競争させている人がまともな訳なく間違いなく小川特有「ロマンチック基地外です。

でもカタツムリの競争なんて結婚式なんて見ていて、何が面白いんでしょうね。

そういった意味でも彼等は確実に「同志」だったのだと思います。カタツムリに愛情を注げる非常に数少ない人々・・・。かつて主人公が夢見た、空港に着陸離陸する飛行機のように壮大な使命を背負っていなくとも、「同志」は「同志」。カタツムリ同盟。

ちなみにこの短編の主題となった女性作家・パトリシア・ハイスミス300のカタツムリを庭で飼育し、飛行機に乗る際はおっぱいの下に隠していたそうだよ。やんばい。

 

第四話 臨時実験補助員:23年前、通行人がそっと目に付くところに手紙を置く実験に参加した私。当時ペアを組んでいた年上の赤ん坊がいた「あなた」と偶然再会し・・・。

あなたの作業を中断できるのはただ、芝生の上に落ちる木の葉だけだった。p.104

はっきりと不穏な匂いがたち込める一遍。

前半の手紙を置く作業をしている間は非常に平穏だった。その実験自体は非常に奇妙とはいえど、主人公と彼女はうまくいっていた。彼女が時節トイレで出す母乳は、慣れればそれは健全なる母性に思えた。

だから仕事をやめた後、彼女の歪な母性に、まだ19の小娘だった私は非常にショックを受けたのだと思う。ババロアに母乳を無心で入れ続け、赤ん坊が泣いていてもそれは無関係で、作業が中断されるのは庭に落ち葉がひとつでも落ちようとする瞬間のみ。

多分、この主人公である「私」は非常に健全な人間で、健全に育ち健全に大人になり健全に社会生活を営んできたのだと思う。

でも彼女との再会でそれが一瞬で崩れると思ったから・・・、再会した後「レストラン」「お酒」と楽しそうに告げる彼女から急いで逃げたのではないだろうか。

多分誘拐の女王も、第一話の主人公からは非常に魅力的に映ったけれども、第四話の主人公から見れば、この女と同じ・不穏な基地外にしか写らないように思う。

「彼女はいつも自身の妄想に浸るように視線は宙をさまよっていた。彼女から、誘拐を救ってくれた英雄の話を聴く度、私の心は沈んでいった。鉛をつけられたように彼女正解へ深く、深く。それでも決定的に存在を無視できなかったのは、彼女の態度が常に穏やかだったからである。気づけば彼女は私の心の真ん中にいるのであった。穏やかににこにこと笑顔を浮かべて。」とでもいうように。

いや・・・誘拐の女王を主人公が受け入れられたのは彼女が子供だったからかもしれない。大人は、それがどんなに静寂で優しくとも、狂気・自身の理解に及ばないものに対して過敏に反応しがちなのだから。

基本「大人」とロマンチック基地外は、相性が、悪いのだ。

 

第五話 測量:老衰のために盲目になった祖父はやがて歩数で物の距離を測るようになり生活を営むようになった。そしてやがてかつて自身の持っていた土地も己の歩数で測量したい旨を孫に告げ・・・

「ノートに記される柵はまばらとなり、余白ばかりが目立ち、一続きの囲いを作るにも苦心する」p.136

一人の老人の静かな死を描いた短編である。その老人の死因が「老衰」であること、彼を見届ける大学生の孫がいたこと、そして鎮魂歌を謳う虫がいたことで、それは非常に穏やかに終わる。

僕は何故この話が「不時着する流星」なのか分からない。

この10の物語の中で一番美しく一番穏やかに収束し、読者の心に静かな余韻を残す。

流星、よりかは夜空にただ一つ確固たる輝きを放つ北極星のような話だと思った。

だって、象の死体の上の夜空には流星より静かな、北極星の方が似つかわしいと思わないかい?

 

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 第六話 手違い:「お見送り幼児」の姪を連れて葬儀場を訪れたが、何かしらの手違いにより、今日は葬儀の予定はないと言われ・・・。

あちら側へゆく道の途中は一面、苔に覆われているらしい。p.149

「のんのさん、のんのさん」

何度もそう呟いて目を半開きにした。p.154

僕はこの話が二番目に好きかもしれない。恐らくこの10の話で人気投票しても上位にくる話じゃなかろうか。

まず「お見送り幼児」という発想が好き。

あの頃はまだ、葬儀には小さな子どもがどうしても必要なものだと皆思っていた。幼児の見送りがなければ、死者は無事にあちらの世界はたどり着けない、未熟でか弱いものだけが、死者が行くべき正しい方向を目配せできる、と信じられていた。p.142

という記述があるように、「お見送り幼児」というのは死者の為に葬儀に参列する幼児のことである。

はえー、そんな習慣あったんか。日本に。と思いつい検索してしまったが、この文化はどうやら作者がこの短編の為だけに作ったものであるようだった。

凄いと思った。「お見送り幼児」。まずその設定を聴いただけで、葬列に並ぶ幼児の姿が浮かぶ。黒いワンピースを着て、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめながらずっとうつむいている少女。時節ぎゅっとぬいぐるみを抱き寄せて、涙を堪える。無垢な哀しみがそこにはある。

加えて葬儀という場所に彼女がいる理由も明瞭に説明されているものだから、すっかりあるものだと思っていた。吃驚だった。

でも僕がこの物語を好きなのは、この設定だけではない。

この姪自体が好き。

中盤、姪と私が湖水公園に寄ってベンチに座るシーンである。26ページ中15ページをこの一場面が占めている。無論ワンシーンが続くのではなく、途中姪のおもちゃの描写であるとか死者があちら側へ行く際に通る道の描写が挟まっているが、短編とはいえど半分以上場面を変えず進む小川先生の小説は珍しい気がする。

その間を縫うようにベンチに座って休んでいる姪の所作が事細かに書かれているのだけれども、何ともこの幼女、不穏なのである。幼女が不穏。

偲んで寄付された石に彫られた名前(要するに死者の名前)の読み聞かせを喜んだり、石を積み上げて塔を作ったり(これは幼くして死んだ子が三途の川近辺で鬼にどつかれながらやっているという遊び)、葬儀の主役・死人に履かせる毛糸の靴を自身のおもちゃ全部に履かせたりするのである。そしてそれに頬ずりするのである。目を半開きで。p.154

彼女の周りには常に「死」が漂っている。

お見送り幼児という役目に対し「まるでこのために生まれてきたかのよう」で、お見送り幼児の中でも「特に人気があった」p.142のも頷ける。だってこんなに死が似合うのだもの。

ところがどっこい、この短編のルーツとなる人物は、彼女と全くの無関係である。

ルーツとなる女性はヴィヴィアン・マイヤー。生涯のほとんどを住み着きの乳母として生きた女。

彼女をモデルにしたのは、主人公達が休んでいた湖水公園の湖水の周囲で遊んでいた男の子達の子守の女性である。もう簡単に言うと知らない人なのである。まじで赤の他人。赤の子守。

ただその不穏な幼女が泣いているところを、持っているカメラでシャッターを切って撮影したのがこの女性だった。

恐らく、この女性はシャッターを切らなければこの不穏な物語の主題になることはなかった。普通のただの通行人だった。無関係でいられた。しかし、そのお見送り幼児に生まれたかのような幼女の泣き顔をシャッターで撮ったがために、この物語の主題になってしまったのである。

シャッター音と共に彼女の運命は変わってしまった。

シャッターを切ってしまったばかりに・・・。なんと不運な。なんと不穏な。

まるでこの女性がこの物語の主役になることが「手違い」とでもいうような出来事。

不穏な幼女と、その不条理さも含めて、この物語は好き。

 

第七話 肉詰めピーマンとマットレス:私は留学中のRの下宿先へ泊ることになった。

調理台から食卓、ワゴン、食器戸棚の上までずらっと一面肉詰めピーマンだった。p.178

これはもうネタバレしちゃうのだけれども、1992年、母子家庭で育てた息子の留学先に母親が訪れる話である。その際の大家が親切で、そして余った肉詰めピーマンをあげたら喜んでくれましたよと言う話。

第五話で一旦収束した後第六話で再び揺らがせ、ここにきて第七話でほっと一息、といったところか。ロマンチック基地外も出てこない。人も死なない。不穏な匂いも一切しない。

この話単体で思い出したのはよしもとばなな『キッチン』。それくらいなんてことはないがふと心の琴線に触れるような話なのである。

音階でいうと、ドミソ。

読後感は第一話よりしんなりと穏やか。

そしてこの物語のモデルもまた、ほとんど主要人物とは無関係である。最後の最後、息子と別れを告げる空港のシーンで出てくる。

バルセロナオリンピックの男子バレーボールアメリカ代表。

きっと当時の映像が作者の心に残っていて、彼等が使った空港にこんな日本人がいたかもしれないと、世界を広げて拾った物語なんだろう。

そしてそういう日本人はきっといたはずだ。オリンピック選手の華々しい空港着離陸の背景のエクストラの人々ひとりひとりにも物語はあるはずなのだ。

 

第八話 若草クラブ:四人の少女達は若草物語の劇をやることになり、それは無事上演された。しかしその後も四人は集まって劇の練習をするようになる。

「あんたはエミイ」

異論も苦情も代案も出ることなく、平和的にまず私の役が決定した。p.191

若草物語に魅了された三人の少女と、若草物語に身が狂う程魅了された一人の少女の物語である。

若草物語僕が人生において初めて読んだ分厚い本がこれだった。

内容は四人姉妹がああだこうだするものなのだけれども、僕にはひどく新鮮に映って大人に感じられてずっと「一番好きな物語」だった。小公女も、秘密の花園も、赤毛のアンもいつ読んだかどこで買ってもらったかそもそも買ってもらったのかさえ思い出せないけれど、若草物語は、今は亡き「谷島屋」の児童書のコーナーで、小学一年生の時に買って貰った、ことも、挿絵も背表紙のイラストも、カラーも、大まかな金額も、鮮明に思い出せる。メグの赤いドレス、ショートになり〇⇒△になったジョー、儚げの表情のベス(人生初の「好きなキャラ」だった。)、一人だけ金髪碧眼だったエミリー。緑色の装丁で、シリーズのナンバリングは「1」で・・・。

僕が幸運だったのは、小学一年生の時にこの物語に出会ったことだ。

出会うタイミングがもっと遅かったらそう例えば本書のように、思春期で多感になってくる中学生の頃だったらどうだったろう。

きっと毎日四人姉妹のことを考えて考えて考えて何も手がつかなくなるだろう。「私はベスだから(病弱です)」と不登校一直線だったろう。「私はベスだから(本が好き)」と無理して岩波文庫に手を出していただろう。「私はベスだから」と青木のおじいさん※(今はもう亡くなった。当時70代後半と思われる。やさしげ。)に偶然を装って出会おうと、隣の青木さんちの周囲を四六時中うろうろしていたかもしれない通報不可避。恐ろしい。

※ベスが隣の家のおじいさんと懇意になりピアノをいただくエピソードが物語中盤にある。僕(14)だったらきっときっと、隣の家のおじいさんと懇意になり部活で使うホルンをいただく計画を練っていると思う。僕(27)だったら断然金です。金。

 

その「恐ろしい」話が本編である。

 違う点は主人公が「ベス」ではなく、「エミィ(エイミー)」であったこと。

エイミーというのはなんとなく「美人」というイメージがあり、私が読んだ児童書でもそうだったのだけれども、そのイメージの根源には昔実写映画でエイミー役を演じたエリザベス・テイラーの存在がある・・・ことを本編で知った。

「エイミー」役の上に、「エリザベス・テイラー」という設定が載ったらもう大変である。どうしようもない。

 

彼女にとってエリザベステイラーは、僕(14)にとって誰だろう。外国の映画はあまり関心がなかったが、強いて言うならば当時流行っていた某ポッター映画のヒロイン・エマワトソンじゃなかろうか。

 「僕はベス・・・僕はベス・・僕はベス・・・」

ベスだっら髪の毛を伸ばさなきゃいけないし栗色に染めなくてはならないし毎日たくさんの本を読んでハリーポッターを毎日読破して杖を持って魔法を使わなければならないし病弱だから不登校だけど頭良くならなければならないし毎日毎日英語英語英語英語英語英語英語国語数学世界史日本史倫理政治経済現代社会地学生物化学物理道徳環境問題総てに通じて居なければあらないから一日15時間は勉強して静岡新聞朝日新聞毎日新聞ニューヨークタイムズを読まなければならない。そして僕はベスて太眉の美人であるから毎日毎日眉をアイブロウもしくはもう茶色いサインペンで書いて整えなければならないし睫毛もくるんとしていなければならない体型もスリムでいたいから毎日5キロは箸って腹筋をしてそして読書は無論洋書で一日一冊は読む必要があるだろうそれくらいしないと、僕はベスになれない。

 

じゃあベスにならない僕は何か?

 

三人はほどなく、私の胸の小箱が空っぽになのにも気づくに違いなかった。p.212

 

少女のための恐怖綺譚。

少し前の小川洋子の短編集に見られるような(「薬指の標本」「まぶた」「刺繍する少女」など)

繊細に縁どられた少女の狂気。好き。

 

ちなみに無事にエマワトソンはベスを演じることはなく、最近の実写映画で長女のめぐを演じていましたね。正直ベスの女優さんは可愛いけれど憧れるような美人ではなく、僕(27)も上記のような狂気に陥ることもありませんでしたさんきう!

 

第九話 さあ、いい子だ、おいで:子供に恵まれなかった夫婦は文鳥を飼うことにした。妻である「私」はその文鳥を買ったペットショップ店の青年が気になるようになり・・・?

私たち夫婦は子宝に恵まれなかったので、代わりに文鳥を子どもとして可愛がることにした。p.217

本作10短編収録されているけれども、この短編の一番初めのこの一行が一番好きですね。

【恵まれなかったので、】【代わりに】【子供として】

「なぜこの二人に子供が出来ないのか」。総てが凝縮されている。

 

不妊に悩む善良な夫婦を書いた作品ではありません。どちらかというと非道な夫婦を描いた作品です。雰囲気も不穏で結末も陰惨で目も覆いたくなる。

でも主人公のような人間って少なからずいると思います。

愛するふりは出来ても愛することは出来ない。

世の中そういう体裁になっているから合わせて生きて来たけれども、

本当の心の底では夫も文鳥も自分も全く愛していない。

「さあ、いいこだ、おいで」p.225

だから本当の愛を知っている人を見ると心が揺らぐのです。

そういう瞬間、そういう一編。

 

不妊に悩む夫婦。

 

僕達世間は勝手に二人を「善良な夫婦」と考え、当たり前に不妊治療はしているだろうと推測し報われない日々を想像してなんてかわいそうなんだと捉える傾向にあると思います。 

そして二人のハッピーエンド・幸福・・・(子宝、もしくはそれは養子かもしれない)の形をささやかながらに祈るのです。

そういうところにメスを入れるのが、相変わらず小川先生は、お上手で。

彼女の芥川賞受賞作・『妊娠カレンダー』を思い出しました。あれもタイトルと表紙だけ見れば妊娠に悩む女性が主人公でいつかくるその日を楽しみにしている情景が浮かぶ一冊でした。※

※実際は、女性の妹を主人公とした不穏な雰囲気をぷんぷん匂わせる中編小説です。妹は姉の死産を願ってああだこうだする話・・・、あの表紙・タイトル詐欺凄いと思う。かなり昔に二子玉の蔦屋書店で「妊娠・出産」コーナーに一冊置いてあるのを見たことがある。店員(コンシェルジュ)の性格悪すぎる。

 

第十話 十三人きょうだい:父方の兄弟の十三番目にあたる「サー叔父さん」と私は仲が良かった。

叔父さんは私が何か頼み事をするたび、たとえ絡まった綾取りの紐を解いてほしい、というささいなお願いであっても、姿勢を正し、「アイアイサー」と言って敬礼した。p.243

どうなんですかね。この叔父さんは人間だったのでしょうか。

祖母の口から数多い兄弟のことは出てきても「13人」という具体的な数字は出てきていないんですよね。主人公の父親も然り。

もしかしたら、この物語の主人公のような寂しい子供のところへ、三輪車に乗って現れる存在なのかもしれない。ロマンチック基地外らしからぬまじでロマンチックな存在。

第八話・第九話と続き最後の話で「13」とくれば、どんな悲惨な終わり方をするのかと思ったら、まさかの静かに終わるハッピー寄りの終わり。

 

読み後心地よくてとても好きでした。

 

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以上である。

前読んだ「偶然の祝福」がぐう微妙だったからどうしたものかと思っていたけれどそんなこたぁなかった。最高だった。

特にこの短編集は「ロマンチック基地外が現れて主人公の周りを引っ掻き回していく」という小川先生特有の短編が多く、

個性様々なロマンチック基地外が見られて良かったです。

その話が事実に基づいてたら尚更。

 

なのでこの書籍は、小川先生の作品が好きな人にこそ薦めたい。

もしくは、寂しい人。

だってこの書籍にはお前なんかより、ずっと寂しいロマンチック基地外がたくさん出てくるのだから。

 

***

 

註:ちなみに「ロマンチック基地外」が登場するのは、第一話第三話第四話第十話です。主人公が「ロマンチック基地外」なのは第二話第八話第九話

 

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LINKS

3年前の記事・・・24の時に書いた記事ですね。この頃は仕事をやめて一人暮らしで寂しく二ーーーートしておりました。

tunabook03.hatenablog.com

 

これは実家に帰って二ーーーーーーートしておりました。週1-2のバイトをはじめるのはこの半年後。

tunabook03.hatenablog.com

 

小川洋子先生の他作品の感想群。

上記2つは最近。「夜明け」は本当に昔。

書いてませんが、ブログや住んでた時期に「ミーナの行進」も読んだ。あれはなかなか面白かったわね。昭和がロマンチックに描かれていて良かった。

 

tunabook03.hatenablog.com

 

 

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