小さなツナの缶詰。齧る。

サブカルクソ女って日本語、すごく好きだったよ。

小川洋子『いつも彼らはどこかに』-【錠剤:ピカレスクコート】5錠-

 

 

・・・抱きしめる。

 

 

小川洋子『いつも彼らはどこかに』(新潮社 2016年)の話をさせて下さい。

 

 

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【あらすじ】

たっぷりとたてがみをたたえ、じっとディープインパクトに寄り添う帯同馬のように。

深い森の中、小さな派手大木と格闘するビーバーのように。

絶滅させられた今も無亜のシンボルである兎のように。

滑らかな背中を、いつまでも撫でさせてくれるブロンズ製の犬のように。

ーーー動物も、そして人も、自分の役割を全うし生きている。

気が付けば傍に在る彼らの温もりに満ちた、8つの物語。

裏表紙より

 

【読むべき人】

・大人向けの童話が読みたい人(現代日本が舞台の「帯同馬」を除く)

・寂しい人

・愛することを忘れた人

 

 

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【感想】

本書の存在自体はもともと発売当時から知っていた。

確か、「王様のブランチ」に紹介されていたように思う。ランキングだったか、VTRだったかは思い出せない。当時からもう小川洋子作品を漁って読んでいた僕は気にはなっていたが、今も昔も新品で単行本を買う財力はないので、そのまま見逃していた。

 

手に取ったのは、マネキンが出る、と知ったからだ。

マネキン、というのはスーパーの試食のおばさん・お姉さんのことである。私は1年アルバイトをして、県内の色んなスーパーを飛び回った。同じ県・同じ市といえど、いろんな街があっていろんな人がそこで生活をしていて、地域差をぼんやりと眺めるのが面白かった。たとえ電車バスで2時間以上かかる場所であろうとも苦にならなかった。

思い出深い職を、我らが大好き小川洋子先生が書いたということなので、一体どんな話なのか。めちゃくちゃ気になって文庫本をまぁその赦してくれ、一人暮らしフリーターには新品で文庫本をホイホイ変える財力がないのである、小川洋子風に言うと黄色い看板が目印のインターネットの古書店・・・まぁぶっちゃけるとブックオフオンラインで購入して読んだ。

結果、まぁ思ったより時間かかった。250ページ弱であるが、3週間くらいかかった。これくらいの長さであれば小川洋子先生の短編集であればまぁだいたい1週間あれば下手すれば2日くらいでほいほい読めてしまうのではあるが。

でも読んで良かった。

手にして良かった。

 

もう自分はずっとこのままずっとマネキンの職をやってそしてひとり死んで行くんだろう、とか、こんなにも私が想って挙げているのにこの人は私のモノにならないんだろう、とか、大切な人を失った悲しみから立ち直っても立ち直れない、とか。

「絶望」とか「悲しい」とか「辛い」とかそういう数ある日本語の、隙間に佇む複雑な感情を描いた短編集だった。

どの話もひそやかに、闇がぽっかりと空いている。

・・・静かに。

耳を澄まさなければ見逃してしまいそうな、静寂の闇。

・・・密やかに。

「いつも彼らはどこかに」。

そしてそれを黙って見つめる動物たち。

 

恐らく、小川洋子先生を嗜んだことある人は「どの短編集でも小川洋子先生の作品には闇をはらんでいるのでは?」と思うかもしれないが、本書は数ある短編集の中でも特に、深く、暗い隙を描いているように思う。

それを見守る動物達「彼ら」がいなければ、目を逸らしてしまいたくなるような。

誰もが思い当たりがある。

あの醜い。

感情。

ガラス細工のように繊細にしかし確かなる筆致で描かれているから、こんなに時間がかかってしまったんだと思う。

多分これらの短編集を小川洋子先生以外の作家が書いたら、多分僕は挫折していた。先生の美しい日本語だからこそかろうじて読めた感はある。

 

 

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以下簡単に各話の感想を書く。ネタバレも一部あり。なんか一通り書いたけど、多分本作読んでないと支離滅裂な文章のように思うけどご容赦願いたい。好きな話は「断食蝸牛」「帯同馬」「ハモニカ兎」

 

「帯同馬」

※帯同馬:競走馬が長距離の遠征を敢行する際に、競走馬の付き添いとして共に遠征をする競走馬のこと。*1

ところがある日、郊外に新設されたショッピングモールへ向うため電車に乗っている時何の前触れもなく、「このままこれに乗っていたら、自分は一体どこまで運ばれてゆくのだろうか」という疑問が、一瞬胸をよぎった。p.13

悪漢、の名とは不釣り合いに、ピカレスクコートは穏やかな目をしている。p.22

人生というのは旅だ、と教えてくれたのは筒井康隆『旅のラゴスだった。

生きるとは変わり続けることだ、と教えてくれたのは秋元康の書いた詞だった。(欅坂46「二人セゾン」

生きて居る限り僕達は変わり続けるし、移動し続ける。

母の実家がある滋賀県大津市で生まれ、静岡市A区18年間ぬくぬくと育ち、大学は4年間八王子、その後は2年間横浜にいて、静岡市A区の実家に戻って2-3年間過ごしたのちに、同じ静岡市だけど隣のB区で一人暮らしをしてもう1年半が経とうとしている。

年少のころはお花屋さんになりたかった。ウエイトレス、看護婦(当時)と夢が変わり、小学校1年の時にちゃおを読んでから漫画家を目指すようになり、画力の限界と同時にライトノベルと出会って小説家になりたいと思いつつも、しかし現実はそう甘くない。教師を志して教育実習まで行って、塾講師までなったが、もともと気づいていた。教育は違った。やりたいことじゃなかった。他を知らな過ぎた。高校大学時代もしなかったニートを1年間した後、マネキンのアルバイトを週2-3で1年間、その後一度食品小売店の社員となるもアルバイトとなって、同じく高校大学時代考えもしなかったフリーターに成り下がり、この前その小売店も退社してレンタルビデオ店のアルバイトになった。漠然と今も小説家になりたいとは思っているが作品は書いてない。

高校を卒業してから、住んでいる場所は目まぐるしく変化している。

昔から夢見た職業、就いている職業も目まぐるしく変わっている。

気付けば30になろうとしている。

僕はあんまり臨機応変に対応できるタイプではなくて、変化を好まない。

本当は、新卒で就職して其処の会社でずっと働いていたかったけど、僕内外のあらゆることがそれをさせなかったし、僕自身もそれを赦さなかった。

だからこの、主人公の女性の「このままどこへゆくのだろう」という不安は分かるのだ。分かる。

せめてずっと僕の人生に黙って、静かに、同行してくれるような存在がいたら。

それは夫とか恋人とかそういう存在ではない。他者ではない。

私ありきで存在しているような、ずっと寄り添ってくれるようなものがいたら。

ディープインパクトの飛行機移動に付き添った帯同馬、ピカレスクコートのように。

希う。

でもそういう存在はいないから、無いから、代替品≒錠剤を数粒、水で、無理やり、毎日就寝する前に飲みこむのである。

 

 

 

「ビーバーの小枝」

彼女はまるで私のことを、世界の一番遠い場所からやって来た、最も待ち焦がれた旅人であるかのように歓迎した。p.41

もう決して会えない人も、たぶん二度と会うことは無い度だろうと思う人も、骨の姿でしか出会えないものも、隔てなく私の胸の中に浮かんでくる。p.61

小説家が自分の作品を手掛けていた翻訳家の国を訪問する話である。翻訳家の息子とその婚約者が作家を出迎える。翻訳家は去年の秋に亡くなっている。

「帯同馬」の感想で、変わり続けることに対する感想を綴ったが、目まぐるしく変わる環境で生きるには、一日一日をしっかり食べてしっかり寝てしっかり働いて生きるしかない。というのが、30を目前にした僕の結論である。

食事と睡眠が生きるのに必須なのはわざわざ言わなくてもみんな分かることだと思う。実際は疎かにしがちではあるが頭ではみんな理解しているだろう。

でも働くこと。労働。これも生きるために必要なことだと思うのだ。

無論社会を回すためにであるとか社会貢献であるとか社会維持とかそういった点でも大事なのではあるが、個人単位の生存の為にも働くことは不可欠のように思う。

というのも僕達の悩み、人間関係、収入、昇進派閥云々諸々ありとあらゆる悩みは労働に起因している。恐らく僕達がそれらに逃げているのは、本質的悩みに気づいてどうにかなってしまうから。「このまま僕達はどこへゆくのか」考えると怖くなる。不安になる。恐ろしくなる。「帯同馬」でも描かれてる形容しがたい生まれついた本能的不安に押しつぶされてしまうから。発狂してしまうだろうから。

多分「帯同馬」のアンサーが、「ビーバーの小枝」だとおもう連続して収録されているのは、最優先で考えられた順序なんじゃないかな。「帯同馬」主人公の行動範囲がモノレールに限られているのに対して、「ビーバーの小枝」主人公は自信の小説の翻訳家が住んでいる外国に降り立つところから始まっている。

一日一日労働で紛らわせてしか、僕達は生きていけない。それが正規雇用であろうと非正規雇用であろうと家事であろうと育児であろうと介護であろうと何であろうと。

そうやって確かに確かに一日一日を積み上げて言うことでしか僕達は、僕達を取り巻く内外のあらゆる変化に対して対抗できない。

蠟度は無力なる僕に与えられた唯一の武器じゃなかろうか。

・・・え、違う?

違うか。

わかる。

僕もゴロゴロ永遠にニートしてたいよ~~~~!!!!!

 

 

 

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よく見ると、「ハモニカ兎」を模した人形であることが分かる。

 

 

ハモニカ兎」

代々、朝食専用の食堂を営んできた男の一家は、最も広場に近く、最も朝早く開店すると居る理由だけから、日めくりカレンダーをめくる役目を長く担ってきた。p.66

それは難も変哲もない野兎だった。体毛は茶褐色、大きさは三十センチほど。よく発達した脚のためにずんぐりとして見える。pp.69-70

「刺繍する少女」だった。初めて小川洋子先生の作品を読んだのは。国語の教科書ではなく、同時に配られた名作短編を集めた資料集のようなものに収録されていた。

その時何とも言えない気持ちになったのを今でも鮮明に思い出せる。

ホスピスで刺繍する少女にいったいどんな感情を抱くべきなのだろう。

哀れみではない。同情ではない。優しさでもない。愛しさでもない。

そっとしておくしかない。

あれを読んだ時と同じ気持ち。

ざわざわする。

多分、この主人公同様誰も目にくれないようなことを、陰でしてきた経験が多いからだと思う。

例えば、レジ内のいつのまにか移動したセロハンテープの位置を戻したり、床に落ちているぐしゃぐしゃになったレシートをそっと拾ったり、間違えた場所に置かれている商品をそっと位置を戻したり、だとか。

あの時の、ざわつきににている。

誰も気づかないのに何で今僕はこんなことに精を出しているのか。

誰も見ていないのに一体僕は誰に媚びを売っているのか。

その、ざわざわを、ピン、と兎のようにじっと耳を伸ばしてそばだてて、緻密な筆致でとらえたのが本作なんだと思う。

■■■「そんなこと、みんなやってるよ。

お前が見えないところでみんなセロハンテープの位置だって戻すしレシートだって一日に7枚は拾っているし間違えている商品をきちんと戻してる。」

じゃあ、きっとそのみんなの心を一人残らず容赦なく波立たせるのが、本作なんだと思うよ。

平成から令和になったし、あの資料集に収録する短編も「刺繍する少女」からハモニカ兎」に変えてもいいんじゃないかと思う。「刺繍する少女」は確か僕(28ちゃい)とほとんどどない年だったと思うし。まぁ、その資料集が現存すればの話なんだけれども。

 

 

 

「目隠しされた小鷺」

修理屋がなぜ『アルルの女』なのか、誰にも分からなかった。第2組曲ファランドールのメロディーを耳にして、「あっ、そうだ。丁度よかった。あれを直してもらいましょう」と思い立つ客がそう大勢いるとは思えなかった。p.97

裸婦を見ながら、粗末なアトリエでカンバスに向かうSや、魚を降ろす女主人や、ライトバンの傍らで客を待つ老人の姿を思い浮かべた。p.119

若干ピントをずらしているが、一篇目と二篇目が問と答えになっているように、三篇目と四篇目・本作も、問と答えの関係になっているような気がした。ある人が誰も知らないところでこういうことをやってます・・・でも見ている人はおるで~。こんな具合に。

ハモニカ兎」ではそっと徳を積んでいるのがごく普通の一般人であるのに対して、本作ではそっと徳を積んでいるのが限定された町の変人である。要するに主語が違うことから、一篇目と二篇目のように綺麗に問と答えの関係性にはなっていない、気がする。

でも見ている人はいる。陰でそっと、テープの位置を戻したりレシートを拾ったり商品の位置を直したりしているあなたを見ている人はいる。本作を小川先生から読者へ向けた肯定的言葉に捕らえるのは都合が良すぎるだろうか。

ちなみに、この老人はちょっと変わった美術鑑賞の仕方をする。非常に独特な方法であるがそれは、120%純粋な状態で作品と向き合うためである。その真摯な姿勢は見習いたい。

 

 

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「愛犬ベネディクト」

「ベネディクトをお願い」

と、妹は言った。p.127

妹の生活はドールハウスを作ることに埋没していった。ほとんどすべての時間をドールハウスと共に過ごしていた。いったん其処に足を踏み入れたら、もう他のどんな場所へ行く必要も感じないようだった。p.133

僕は本を手に取った。『ブリキの太鼓』だった。

『母はオスカルを小人さんと呼んだ。あるいは、私の小さな、可哀そうな小人さん、と』p.152 ※〈参考文献〉「ブリキの太鼓」高本研一訳 本作末に掲載

一日中ドールハウスを手作りしている妹の話である。ベネディクトと言うのはその家に住む犬の人形の名前で、哺乳類の生物学上の犬ではない。

僕の小学校のクラブ活動には、ドールハウス・クラブというものがあった。月に1回のクラブ活動で、ただ淡々とドールハウスを手作るというクラブ活動だった。毎年3月に作品を発表する機会があって、毎年僕はその展示を内心楽しみにしていて目にする度になるほどなるほどすごいすごい、と感心したものだった。

L字型に組み立てられた箱のなかには粘土で作られたベッド・布で作られたベッドメイキング、カーテン、木材とボンドで作られたテーブルとボンド、壁紙には花柄のハギレが貼られている。手先の器用さはまるで職人のようだ。1年間かけて、9-12歳の少女達が丹精込めて作り上げたいくつもの部屋。多少出来に差はあったけれども、そのどれもが理想の部屋で、ゆらゆら、僕の心をときめかせたものだった。こんな部屋に住みたい、と紙と粘土とハギレで作られた部屋に想いを馳せた。

少女によってつくられたミクロの奥深き小宇宙・・・。

本作最後の、『ブリキの太鼓』に出てくる「小人」は誰だろうと考える。

初めは妹のことだと思っていたが、多分、主人公の少年のことではないか。

 

 

【君は、他者に絶対触らせない、自分だけの小宇宙を持っているか。果たしてそれは、君を孤独から救うだろう】

 

 

 

 

チーター準備中」

すると彼らはまるで、目の前にいるおばさんがぬいぐるみを作った本人であるかんおような、この人こそが楽園の女王様であるかのような目で、私を見つめるのだった。p.158

しかし彼等はもういないのだった。私はいくらでも、いないものについて考えることができるのだった。p.176

目元が陰になって、一瞬ティアーズラインが現れ出たかのようだった。p.184

動物園の土産物屋で働く、息子のhを亡くした女の話である。cheetah、綴りにhが含まれていることから気になり始めたチーター。の、飼育係の青年との交流を描く。実は動物園のチーターはそんなに出てこない。むしろゾウのが存在感ある。

・・・時がたっても別れは癒えない。心に空いた穴は埋めようと思っても絶対に埋まらない。絶対にだ。その穴を埋めるのではなく、自身で受容することが、癒えるってことなんだと思う。

前の職場は笑顔での接客が重視される店だった。僕は、店舗で一番にこにこしていた。笑顔がいいとエリア長からよく褒められたからにこにこしていた。母親の病が不安で不安でどうしようもなくなった時も、親しかった仕事仲間に急に無視され始めた時も、叫びたくなるような怒りの衝動が胸を突き上げてきても、どうしようもない失敗をした時も、にこにこ、にこにこしていた。そうすれば、相手もにこにこしてくれる。笑顔の連鎖。

でもいくら笑顔をふりまいても、いくらにこにこしていても、僕の心の底は、しん・・・としていた。

あいた穴って、別の物でふさがることってないんだなって。最近になって気づいた。

いいことや楽しいこと、嬉しいことがあってもだからといってその穴がふさがることなんて決してない。

そういう祝福されるべきことは、穴をふさぐためではなく、穴を受容するために起きるものなんだと思う。

時が忘れさせてくれるというが、時がたったからと言って穴がふさがれることは無い。神が与えた穴を受容する猶予なんだと思う。その時間、というのは、

でも穴があいたからといって、途端に崩れるほど僕達は脆くない。

辛いことや別れ、等は28年間生きてきてそれなりに経験してきたつもりであるが、僕の心の中心・本質的部分にあいた穴はまだない・・・気がする。あいたらどうなるんだろう。

チーター」の綴りにhを探すような日々を訥々と、過ごすのだろうか。

 

 

 

「断食蝸牛」

風車は虹色の触覚で埋め尽くされています。その真ん中に風車守は立っています。男の目に女の後ろ姿が映っています。女のブラウスがその奥でうごめき、瞳を虹色に染めています。

「あっ、いけませんわ。寄生虫が・・・・・・」

風車森を指さして私は声を上げますが、男は瞬きもしません。女はやはり四つん這いになって蝸牛を拾い集めています。p.218

どうして、僕達はこんなにも、別れを予感することが出来るのだろうか。

途端に言葉が重さをみすみす失っていくのを感じ、上滑り、空虚になり、どこか遥か彼方に飛んでいくのを感じる。「またね」「また会おうね」何度も何度もそういってもその度に言葉の意味の無さを知る。

例え病にかかった蝸牛よろしく全身で身もだえるほどであっても別れは唐突に訪れるものであり僕達は不意にそれらを直感する。

まぁ感じ取れない時もあるけど・・・でも、どうして。

どうして。

僕がこの短編を好きなのは、最後の最後の主人公があまりにも、哀れだからだ。身分違いの恋(無論女のが上)で、結ばれて当然相手は喜んで当然でしょう、と思ったところに出来の悪い下働きの女がその男を最後にカモメよろしくかっさらっていく場面で終わる。

女の気持ちが痛いほど・・・痛いほどわかって強く心に残った。喪女の僕は小さかれ大きかれたくさんの失恋をした。酷い時は真夜中叫ばずにはいられない程だった。だからもう多少の小さいものであれば僕は泣いたりしない。

ただ不意にその様々な色々な別れが彩られてマーブル模様がごとくカオスに混ざり合い僕は身もだえをしたくなるが、今もこうやって、なんとか・・・なんとか。

ちなみに、寄生虫にやられて色とりどりに変色する蝸牛は、僕の屈指のトラウマ動画である。見てほしい。ちびるで。

 

 

 

「竜の子幼稚園」

何らかの理由で旅ができない人のため、見代わりとなるしなをその中に入れ、依頼主に成り代わって指定のルートを巡るのが彼女の仕事だった。p.226

本人は気づいていなかったが、彼女は調理補助としてよりも、身代わり李旅人としてより適した素質を備えていた。(中略)身代わりと言いながら、彼女は自分が決してその人に成り代わって旅をしているのではない、ただその人の付き添いをしているだけだ、と自覚していた。p.228

あの、モノレールの範囲でしか移動できなくなった女性の傍に、この「身代わり旅人」という職業の人がいたら彼女は一体、何を託すのだろうか。

何も託さないだろう。託すものなどない、気がする。

そして女性ではなくピカレスクコートの身代わりに、ということで、ディープインパクトの帯同馬として日本を出発た旨の新聞記事を入れるのではないだろうか。

今度はあなた自身の旅をして。

そんなことをもごもご小さい声で呟きながら・・・。

ちなみに、検索するとピカレスクコートは実在した馬ということが分かる。日本にも無事に帰国したことも分かるし、そしてその後出たレースでは結果を出せなかったことも分かるし、北海道に移送されるも最期は行方不明、ということも分かる。

 

【・・・ピカレスクコート僕達人類全員に君のような存在がいたらどんなにか、報われたことだろう。】

 

 

 

 

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以上である。

余韻が結構続いて、あとまぁぶっちゃけ短編集の割に重かった。思ったより。

でも読んだ価値はあったし、人生の内にもう一度は読み返したい。

30歳の時かもしれない。38歳の時かもしれない。48歳の時かもしれない。58歳の時かもしれない。68歳の時かもしれない。78歳の時かもしれない。88歳の時かもしれない。98歳のときかもしれない。108歳のときかもしれない、その時は、一体僕はどのようなことを感じるのだろうか。

 

【・・・28歳の僕はこう思いました。

インターネットがあと何年あるのか皆目見当もつかないがここに記録しておく。】

 

 

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***

 

LINK

他の小川洋子先生の作品の感想。全部短編集。『偶然の祝福』は連作短編集でしたが・・・。このなかで好きなのは「不時着する惑星たち」かなぁ。小川洋子未読者には「最果てアーケード」がおススメ。

 

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言及した筒井康隆『旅のラゴス』の記事。

4年前とか・・・。

 

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