小さなツナの缶詰。齧る。

サブカルクソ女って日本語、すごく好きだったよ。

2023冬のはなし。-大丈夫、といえたから多分大丈夫。-

 

 

人生における最大の理解者を失ってしまった。

 

会えるけど会えない。

から、

会えないけど会えない。

 

 

「2023冬のはなし。-大丈夫、といえたから多分大丈夫。-」の話をさせて下さい。

 

 

火葬場ででたお寿司。意外と美味しかった。

 

先月、2023年1月17日朝9時18分頃。母親が亡くなった。

最後、最後に間近で目を見て「大丈夫だよ・・・大丈夫だよ・・・」と言う事ができ、其処に悔いはなかった。

その時こそ涙を流したが、その後は淡々とありとあらゆることが物凄いスピードで進んで行った。午後には妹と恋バナに花を咲かせ、マックを食べ、翌日には北海道来てくれた叔母と葬式の準備や打ち合わせを淡々と進め、そして通夜にはたくさんの人が来て、葬式にはそこそこの人が来て、幕を閉じた。

あっという間だった。

拍子抜けした。

58歳だった。

 

その日(1月17日)のマック。包み紙が違いますが、サムライマックでした。

「肺癌だって」というラインを受け取ったのは、静岡駅前の葵タワーのサンマルクカフェだった。そこで呑気にチョコクロワッサンを食べながら就活の紙だかを書いていた時にLINEが来たのだった。

違和感はあるといっていた。2-3か月。

なんか肺の方に違和感があると。咳も止まらないと。

病院行きなよ。

いやいや、大丈夫だよ。

その往復が何度かされて、何度かされていくうちに有耶無耶になって、有耶無耶になった末でのこれだった。ステージ3のBだった。

癌。

最寄駅から家派の帰り道の途中、白いボタンのような大きい花が道端に落ちていた。その片鱗から茶色く腐食していた。雨が降った後の暗い藍色のアスファルトによく映えた。忘れられない。

その数日後に最終面接を受けた会社があったが、その日もう私はしどろもどろで、実質蹴ってしまった。自分の漠然と描いた将来プランには当たり前のように母親がいて、当たり前のように私は支えられ、当たり前のように孫の顔を見せ、当たり前のように当たり前のように当たり前・・・が当たり前でないことを知る。

泣いた。泣いてしまった。

 

数か月後手術を受けることになった。

母親がかかることになった病院は巨大で、手術のための棟があった。

そこに「ばいばーい」とでもいうように手を振って、入っていく手術着を着た母親はとても小さく見えた。

1時間半で終わる、と告げられていた手術が実際は6時間近くかかった。

癌が推測以上に肺に転移していた為だった。

小さい部屋で、父親と私は主治医の話を聞いていた。

「これですね」

ピンク色の肉塊が「癌」といわれてもぴんとこず、またこれが今後母親の全身をむしばむのもイメージがつかったけども蝕んで、蝕んで、もうだめ、もうだめになるかと思うと、涙が止まらず嗚咽もおさまらず、途中退席したのだった。

帰り、吉野家に寄ったのを覚えている。泣きながら食べる私に父親はいらだっているようでなるべく泣かないように泣かないようにと思って耐えた。

 

けれどそこから数年は、普通にしていた。

何度か抗がん剤の為に入院、また脳にも転移した為藤枝の病院に行くことがあったけれども、普通に話せたし車も運転した。

就職した際は喜んでくれたし、アルバイトになってしまった際はしょうがないよと肩を叩いてくれたし、そのアルバイト先が変わる時も「まぁあんたにはレンタルビデオの方が似合うと思うよ」と言ってくれた。

父親も何を思ったのか、エアコンを買い替え掃除機を買い替え、そして母親が長年使っていた中古の軽自動車さえ買い替えた。カーディーラーが妹の職ということもあるが、新車を買ったと聞いたときは驚いた。赤いトヨタの中型車でピカピカだった。

その車で、一人暮らしの部屋から実家まで何度も送ってもらった。

途中にジョリーパスタというチェーンのパスタ屋さんがある。

其処に寄るのが定番で、とても安心でキラキラの味がした。

 

でも同時に、それがいつまでも続くはずがないというのも知っている。

いつか母親は死ぬ。自分も社会不適合者でこの先うまくやっていけるかわかんない。将来の希望がない。将来の希望がない。

一時期、特に就職した会社の小売店の一店舗目の店長とそりが合わなくなった時、本当本当に死のうかと思った時がある。

死んだらいったいどうなるんだろう。

私は一人。どうなるんだろう。

そう思うと堪えられなくて、説教中バックヤードで思わずカッターを手首にあてたら、社員労働からパート労働になったのだった。

本気ではなかったと思う。実際リスカの一つもしたことない。

衝動的だった。

けれどもストレスか、手足に蚊に刺されのようなカサブタが無数にできた。その度に齧って捲って血を出した。それでどうにかメンタルを保っていた時期もある。

今現在も私の手足には無数のその跡がある。結構グロいなと思う。当時治そうとは思わなかった。自分が今生きて居る証だと思った。血を流さないとやってられなかった。

 

でも店を変えれば少しマシになり、更に今のバイト先にくればもっとマシになった。

というか、なんかもう、どうでもよくなっちゃたのである。

正規雇用で将来心配云々とか色々あるけれど、母親は言っていた。

特に大学生になっても実家で大声で泣くことのあった私に言っていた。

「過去は生ゴミ

「今しかない」

そう、私には「今」しかない。

じゃあ「今」を少しでも密度上げて一瞬一瞬紡いでいけば、その見えない将来未来とやらは少しはましになるのではないか。

たまりはじめていた貯金をじょきじょきとかした。本。アイドル雑誌。美術館。遠征費。人形。諸々。おかげで今金がなくて所謂「貧困女子」である。でも後悔はない。だってそれは今の私がいるために必要なお金だったから。

今私が生きて居るために必要不可欠なお金だったから。

 

母親と食べた数々の食事の一つ。これは実家の近所のうどん屋さん。

母親と食べた数々の食事の一つ。これは三保のちょっとしゃれた定食屋。

 

様子が変、と連絡がきたのは10月の末だった。

父親からのLINEだった。

「お母さん調子悪いからなるべく来た方がいいかもしれない」

それまで月1程度には帰っていたが、9月末は停電や私自身の怪我もあって帰ってなかった。2か月近く帰ってなかった。

慌てて帰ると、母親はとろんとした顔をしていた。

言っていることもおかしかった。

「あれ?なんであんたがいるの?」

昨日帰って来たからだよ。

と何度も説明しても、ぽかんとした顔をしている。

一番つらかったのは、背中の上着のフリースから白いシャツがでていたことだった。

母親はとてもきちんとした人で、特にそういう腰回りのインナーに関しては口酸っぱくして私を注意したものだった。カットソーの裾がずれている。下のシャツが出てる。めくれてる。はみでてる。云々。もう昔から言われすぎてトラウマだった。

それが、あれ?

あんなに白いシャツがフリースの下から、見えてるのに。

 

「余命が1ヵ月」

と父親から珍しくLINE通話できたのは11月の8日だった。仕事終わり常連さんとカードゲームをしていたその合間だった。一人暮らしの狭い世界と実家の危機が直結して一瞬くらりとした。

慌てて実家行くと、母親はもっと訳がわからなくなっていた。

「今、何時だか分からないの。朝だか夜だかわからないの」

時計をみせて何度も「○○時だよ」と伝えても、分からない分からないと愚図をこねた。

でもテレビはまていた。特に、元気だったころと変わらず録画した月曜から夜ふかしを私の後ろでソファーで見ていた時の安心感といったらなかった。

夕方の、静岡ローカル情報番組の1コーナー「ペコリーノ」もまだ内容が分かるようで、視界のずん飯尾さんのゆるいぎゃぐにゆるく笑っていた。

 

しかし、この頃から帰る度にどんどん悪くなる。

一週間前に出来ていたことが、どんどんできなくなっていく。

歩くのに介護が必要だったが、ソファまで歩くことは出来た。

けれどそれもやがて出来なくなった。

ベッドからテレビを眺めるようになった。

けれどもやがてベッド横野テレビの電源がついていることはなくなった。

宅配弁当を残しつつもなんとか食べていた。

けれどやがてそれは謎の液体「メイバランス」になり、それを口にするのも嫌がるようになった。

 

この人は誰?

まぐろどん。

これ(飼い犬)は何?

・・・あれ?

この人は誰?

・・・ああ、まぐろどん。

これは何?

・・・。

この人は誰?

・・・。

・・・。

・・・。

 

12月1月は週1は行くようにしたが、行く度にどんどん弱っていくのが本当にしんどくて、私自身もめげそうになった。

けれども23の時の盲腸、24の時のチョコレート嚢胞。入院した時、ほとんど毎日来てくれたのは誰だったか。盲腸の時なんか横浜の下宿先に泊りこんでくれたんだぞ。

そのことを思い出すとどうしても行かなくては、と思った。気が進まないまま、実家に赴くのが夕方夜になったとしても、なるべく一度でも多く顔を覗かせるようにした。

アルバイトと言うこともあり出勤日数を減らし、週1は行かなくてよい休日を作った。残り2日は行くようにした。

メンタルは危うくなりそうだったが、仕事をしながら介護をしている父がいる手前ここで崩しちゃいられない。ニート時代から世話になってるメンタルクリニックだけは普通に通って薬だけは普通に飲んだ。効いてくれ。効いてくれ。ここで私も倒れるわけにはいかないんだ。効いてくれ。効いてくれ。・・・頼むよ。

 

この頃、時々朦朧とした意識の中で、時節「まぐろどんは2階にいる?」と聞いていたらしい。

私はどちらかというとインドアで、特に実家では1階でテレビ視聴か2階にひきこもって睡眠か読書しかしなかった。

無論一人暮らしで週5のパート労働の為私はその場にいないのだけれども、「よくそう聞いてたじゃん、この人は誰?」

「・・・。」

父親から母親への問いかけでそのことを知って、今もそのことを思うと、胸が詰まる。

私は愛されてる。

私は愛されてた。

 

最後に母親とキャトルエピスというケーキ屋に行った時の写真。
いちごミルクは美味しい。

無事に年はこせた。

お年玉をくれた。

「まぐろどん」よれよれの字で書かれてる。

「なんども書き直したんだよね」

という父親の問いかけに「なぜかうまくかけなくて」と母親は気まずそうに笑った。

その後七草がゆの日、14日に帰省した。

そして16日。月曜日。

帰ろうかどうか迷った。

14日に行ったばかりだし。

けれども、叔母が「行ける時になるべく多く行った方がいい」と言っていたから、17日の昼に1階に降りて会って帰るか、のつもりで16日の夜に帰って来たのだった。

その翌朝だった。

 

その頃の母親はもう完全に寝たきりで、行っても意識がある時のが少なかった。だから行っても手を握ることしかできなかったのだけれども、物凄く苦しそうに息をしている。時々うっすら瞼が開けば、ぎゅるぎゅると眼球が上を向く。

慄いた。慄いて一度は飼い犬を吸ったが

「お母さんの近くにいた方がいいと思うけどね!」

父親に叱咤されもう一度向かう。

寝た切りでは鼻からチューブがつながっている。鼻くそがたまっている。年明けからたまっている。

手をさする。

こんなに手は細かったか。

こんなに脚は細かったか

ぜえぜえ、苦しい息が続く。看護師が来る。呼吸が落ち着いてくる。吸って。はいて。吸って。はいて。「■■子さーん」すって、はいて。すって、はいて。

妹がようやっと到着する。

すって、はいて。すって、はいて。

見届ける。

見届けるんだ。

ベッドの縁越しに母親と目があう。

間近で目が合う。

すって、はいて。

すって、はいて。

「大丈夫だよ」

心配性の母親のことだから。

でも自然と口をついてでた。

「大丈夫だよ。大丈夫。大丈夫だから」

 

実際、何も大丈夫じゃない。

私はフリーターで金がないし、将来のこととか考えただけで不安でもう気絶できちゃう。卵巣に嚢胞は抱えているけれど産婦人科は金かかるから行けてないし。しばらく。

でも、今の仕事は賃金こそ低いがなかなか面白いところがある。将来云々未来うんうん不安だけれど、それは「今」の蓄積、結局「今」を紡ぎだすしかない。一瞬一瞬一生懸命生きるしかない。皮膚科にも行くようになった。「今」を踏みしめるにはこの脚は汚い。少しでも綺麗な脚で今、今を踏みしめたい。ねぇ、何より数年ぶりに好きな人が出来たんだよ。そりゃ短足で太いけど少しでも綺麗にしておきたいよね?ねぇ、クリスマスに告白だってしたんだよ。

信じらんないよ。

信じらんない。

一時期まじでもう無理だったのに、でも今こんなに。こんなに。こんなに。

話を聞いてくれる人だってたくさんいる。前の職場の「先輩」(エリアマネージャー)、行きつけの店の店主、Twitter上での薄い関係だからこそなんでも話が出来た人達、職場の態度は凄いバッチバチだから厳しく見られがちだけど言ってることはすべて正しいでお馴染みの「姉御」(パートリーダー)、中高からの付き合いで今も年1で必ず会う親友、友達、職場、一応家族、あとその好きな人・・・彼氏、とか。

友達は少ないけれど、こんなにこんなにたくさんの人がいる。

だから大丈夫。もう大丈夫。

・・・大丈夫だから。

 

 

葬式云々は私も手伝ったけれども、カーディーラーの営業職が板についてきた妹と、北海道からきた叔母が主体となって淡々と片付けた。合間合間に手を差し入れたり差し抜いたりした。さっさっ。

父親は連絡や葬儀場の人と打ち合わせ等の信仰を進める中で、合間に仕事をしたりしている。

3人とも、24日から仕事を始めると聞いて驚いた。

「えっ!そんな早く1?」

「え!逆に(2月)5日まで休みを取ったの!?」

 

だって20代の後半ずっと脳裏から離れなくて。

いなくなったらどうしよういなくなったらどうしようって、思ってたから。

私の最大の理解者だったから。

でも結局は、私はその休みを持て余した。

今だから言おう。

ほっとんどごろごろしていた。

別に理解者でなくても、私の言葉を大切にしてくれる人が私自身をも大切にしてくれる人が、こんなにこんなにいるんだなって思ったら、そこまで悲しくなくて。寂しくなくて。

母親が死んだらもっと決定的に私は、壊れるかと思っていた。

崩れるかと思っていた。

でも実際はそうじゃなかった。

 

振り返ると、

会える状態から、「会えるけど会えない」状態になった去年の秋暮れの方が辛かった気がする。どんどん呆けていってできないことが増えていって知っている母親の姿が遠くなり生きて居てもそれは私の理解者であった母親ではない。

そしてその「会えるけど会えない」状態から、「会えないけど会えない」・・・ここに骨を残して旅立った時の方がまだ、心は保てた。同じ時間場所空間にいてくれるだけでも成立する救済があることを知る。意識朦朧でも今何時か分からなくとも私が私と認知しなくとも、そこにいてくれるだけで全てがまるくなる。けれど肺に水が溜まって、最後は、最期は苦しそうだった。

・・・もうこれ以上苦しそうな母親の姿を見に実家に行かなくていいんだ。

肩の力が抜けた自分が板の確かだった。

 

長い休みの間、途中泣き崩れることもなかった。後半になっていきなり崩れるのではないか、びくびくしていたが私は私を見くびっていたようである。

じゃあなぜの今頃夜明けに泣き崩れながらこんな文章打ち込んでいるのか。

金がないからである。

やばい。ガスとまる。

そりゃ実家に幾分減った出勤分の給与がパートタイマーだから反映されるわけで。

っておい、これ長い怠惰も反映されちゃうパターンじゃん。

というかまずガス。本当にガス代がやばい。

クレジットの引き落としが入って預金口座1000円ちょっとしかない。

しぬ。しぬしぬしぬって。

 

そしてそういう時に限って父親の父(祖父)も死ぬという・・・。

 

こういう時、いつも母親に連絡していた。

「馬鹿だねあんたは!」の言葉と共にその日中に対応してくれた。

さすがに父にはまずいかと思って母の母(祖母)に連絡をする。

「明日振り込んでおくからね」

からの振り込まれていない・・・!!忘れてやがる・・!!!

しゃあない、90も近い。しゃあないけれども・・・!!!

・・・だからといって90近い祖母に、もう一度催促の電話も憚られる。

ガス代が・・・ガス代が・・・!!!

当時

「お母さん大変だからなるべく多くの時間いてあげてね」

と言ってはのは誰だよ・・・!!!正論である。セイロンティーであるがその分の賃金は誰も保証しない。自分でケツを拭くしかない。これは「あまりにも辛かったら仕事をやめちゃえば」理論にもつながる部分があるなと思った・・・、

 

ああ・・・人生。

 

なので私は苦渋の決断をする。

気まずく今でも仲が悪い父親に、ラインをする。

「やばい・・・お金なくてガス代払えない」

返信は、まだ来てない。

まだ四十九日は明けていない。

頼む頼むよ、母親。父親の夢枕にぽつんと立ってくれないか・・・?

1万、否できれば2万ほしいけれども・・・!!

 

「生きる力」。カロリーメイト

以上である。ああ。

なんかざっくり振り返ると涙も乾いて落ち着いてきた。

何、ガスがとまれば実家に帰ればいい話なのである。父親は父方の実家、北海道にいるわけだし。

大きいテレビでYoutubeだって見れちゃうんだから。

そう思うと、なんだか安心してきた。

さぁ、寝よう。もう、寝よう。

おやすみ私。明日に備えて。

 

人生における最大の理解者を失っても、一時期地の底までおちた気持ちをここまで持ってこれた私ならば、なんとかどうにかなる。

とりあえず私の掌には今しかないから、今を抱きしめて生きていくしかない。

・・・過去は生ゴミ。「今」しかない。

「会えるけど会えない」から「会えないけど会えない」になってしまったけれども、お母さんの言葉は、生きているから。胸に携え私は「今」を生きていく。

 

***

 

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