ハローハロー。
さいはての声が聴こえますか。
ノーノー。聞こえません。
いつか私もさいはてに、なるのかしら。
金原みわ『さいはて紀行』(シカク出版 2016年)の話をさせて下さい。
【概要】
改めて最果てとはどこにあるのかと考える。実際のところ、最果ては生活のすぐそばに存在しているのではないか。知らないだけで見ないようにしているだけで、例えばいつもと違う道を歩けば。何かひとつでも手に入れれば、あるいは何か一つでも失えば、すぎに最果てへと辿り着く。p.6
僕達のすぐそばにある物物・・・宗教、性欲、神様、生活・・・の果てっていったいどうなっているんだろう。
ううん、でもそこを「はて」と決めつけるのは傲慢だ。その「はて」にいるから人達からしたらそれが普通で僕達が「はて」なのかもしれない。
【読むべき人】
・珍紀行が好きな人
・ホームレスとかにふっと、想いを馳せてしまう人
2022年1月14日2時36分、僕の・・僕の成れは手である自分がキーボードをたたいて半開きの目で、ディスプレイを見ています。
ブルーライトは意外と遠くまで照らさない。
僕の28年間生きて生きて生きはてた、しょーもない、つかれた、妙に子供めいた、うすら笑ってる、顔くらいしか照らさない。
大人になったら何になりたい?
将来の夢は何ですか。
大学は何学部を受験するんだ?
一体どこの企業に就職するんだ?
自己肯定感、とか(笑)
さいはてを抱きしめる・・・虚無。
【感想】
本書の存在はもともと知っていた。何で知ったか・・・というと確か「奇書が読みたいアライさん」・・・・のツイートだったと思うがあやふやである。違うかもしれない。
とにかく、ずっと読みたいと思っていた。
けどメルカリに良い値段の中古が無いから、じゃあヤフオクはどうかな~と思って何気なく覗いたら一冊いい感じであったので僕はそれを購入し即座に読んだ次第。珍しく、積まなかった。
まさしく、なんか僕が僕こそ「さいはて」で、なんか今読んでおきたいなって思ったから。インターネットに挙げていた文章であるから基本とても読み易いわけだし。
内容は、結構コアでマニアック。
意外と性的なところも構わずズブズブ行って、取材相手にそっと想いを寄せられる、っていうのは凄いと思った。
僕は童貞(メス)というのもあって、ストリッパーとか風俗嬢とかホームレスとかAV女優とかそういう人のバックグラウンドに想いを馳せることはあるけれど、性的な部分に接触となると生理的嫌悪を覚えてしまう。そこを優に超えるので、みわ先生はすごいなぁ、と思った。いや、もうそういうの気になんない性格だからこそ、「さいはてを旅する」という発想に侵されたのでは?といってしまえばそうなのだけれども。
「性のさいはて」:福島県唯一のストリッパー劇場
初っ端から、マリ嬢(60歳)くらいの勢い良い潮ふきからはじまるものだから、びっくりした。表紙詐欺じゃん。
でもその潮は生命って感じがビシビシ伝わってああ、やっぱ人間って性があってこそ生まれるものだし性があってこそ人間なんだなぁ、潮吹きわっしょい!!って思った。
でもまぁ僕はいいです。行きません。絶対に。
「罪のさいはて」:受刑者が髪を切ってくれる美容室
さいはて、といえど重犯罪者が出てくる超絶重重ドキュメンタリー・・・・ではない。
出所間近の女性囚が切ってくれるという美容室の話。
みわ先生のイラストで、その美容師(罪人)の似顔絵が描かれているのだが、何ともない普通の人でわかんなかった。こわかった。人は見かけによらず。否、出所間近だからこそ、「普通の」外見になったということなのかもしれない。
でも髪を切っても過去は切れない。し、切られた人が変わることもない。いくらシルエットが良くたって一ヶ月もたてば乱れてきてしまう。だから僕は美容室に行くのがいつもいつも億劫なんだ。
過去を切るには手首を切りなさい。というわけで、受刑者が手首を切ってくれる美容室、は「罰のさいはて」。
「水のさいはて」:淀川を延々歩いてみたよ
純粋なくらいの性欲が濃縮されて生まれたハッテン場は、男だからこそ到達できる、ある意味では究極の性の形ともいえないだろうか。p.57
ハッテン場を穢れた場所として見るのではなく、性欲≒生命力漲るエネルギッシュな場所、と捉えるところに衝撃を受けた。みわ先生はきっと野獣先輩をバカにしない。ひどくフラットな大人なその目線に僕の幼稚さが恥ずかしくなる。
(ホームレス等の専門家村田らむさんとのイベントにみわ先生が参加した際)
その時初めて知ったのだが、ホームレスになる理由の中で意外と多いのは「財布をなくしたから」とうものなんだそうだ。
(中略)
でも確かに分かるかもしれない。
(中略)
お金もカードもない。身分を証明するものが無い。手続きには金が要るが、その手持ちの現金も何もない。
そこにあと少し、例えば身寄りが無かったり、職がなかったり等の条件が加わったらどうだろう。p.61
僕はここが一番印象に残った。
僕を僕たらしめることなんて、希薄。
「まぐろどん」「まぐろどんちゃん」
「まぐちゃん」「ろどんさん」
目に見えない、繋がりこそが僕を僕たらしめる。
でもそんな、繋がりなんてスマホ一つ叩き割れば全て遮断。僕はそこにはいません。勤務先のショッピングセンターにはいません。そこの、静岡駅からちょっと離れたワンルームの部屋にはいません。免許証はユニットバスの隅に転がっておりました。
ホームレス、って要するに繋がりレス、もしくは自分レス、なのかなぁ。家を失うのは結果論な気がする。繋がり・自分を失う⇒家を失う。だって生活保護下で一人暮らししている人もいるし。その人たちとのホームレスの人たちとの違いは?
ピカソという爺さんが登場する。
あらゆる偉人の辞世の句を物物に書いて奇妙な小屋・・・もどきに暮らしてる、会話が成立しない、猫を飼っている、ただの爺さんである。辞世の句をたくさん知っているあたり元々頭が良かったと思われるが、多分多くの人々に馴染むことが苦手だったんだろう。
僕もこうなりそうで怖いなって思った。
ねえ。
僕の文章はいま君は確かに、ねえ確かに、読んでいますか?
繋がっていますか?
ハローハロー、僕の文字が聴こえますか?
「異国のさいはて」:男同士のセックスが見られるショーを見に行ったよ。
そこで働くネパール出身のナムとの関係がフォーカスされていくのだけれども・・・僕はモウそのショーの内容自体がビックリ仰天で釘付けでした。凄い。凄すぎる・・・。
彼にとってはゴーゴーバーが現実であり、そこで生きていることが現実だ。p.110
この一文にはさいはての総てが詰まってる。
「食のさいはて」:ゴキブリと犬を食べたよ!!!
いや~僕は普通に無理っす(笑)
いや~・・・やっぱ絶対無理。
「宗教のさいはて キリスト看板総本部巡礼」:黒字に白い文字と黄色い文字で書かれている看板の総本山に行ってきたよ!!!
めちゃくちゃ面白かった。まずその看板の総本山があるっていうのがびっくりだし、看板製造の技術が進化しているのも驚きだし、その総本山ならではの文化があるというのも驚き。何もかもがビックリって感じ。大人の社会科見学。
キャラバンを組んで、志を同じくする人たちと一緒に行動し看板を作って貼って行く達成感は心地いいものだろう。
そして、キリスト教という共通項で繋がる人達のコミュニ亭は広く深い。信じるという条件で受け入れられる。他人との繋がりが今、繋がれるものがあるならば、それだけで救われる。孤独から救われる。pp.150-151
だから、新興宗教っていつまでもいつまでも乱立するんだなぁと思った。
人間って言うのは孤独だ。
基本孤独。寂しい。
僕達はその寂しさに常に耐えながら生きなければならない。
その孤独に打ち克つために編み出された人間の儚き文明。それが宗教なんだろう。
そして僕も人間だから、ついつい祈ったりしちゃうのである。ああ神様。僕にご慈悲を。
あの道端の黒い看板の裏に誰かの充実した人生があるとは思いもしなかった。僕も充実した人生送りてぇ。
充実とは。
「夢のさいはて 最高齢ストリッパーの夢」:熱海の最高齢ストリッパーのショーを見てきたよ!!!
最高齢ながらも始めたのはつい最近だという。亡くなったオーナーとの義理を果たすため。そして「喫茶店を開く」自分の夢のため・・・
何だよ。そんなの、そんなの叶う訳ないじゃんか、といた具合に苛つきに似たような、しかし叶ってほしいと心のどこかで切実に祈るアンビバレントな感情が終盤描かれている。切ない。
でも夢、において大事なのは、結果じゃなくて過程にあるものなのではないか?
だから喫茶店が建とうが建つまいがはどうでもよくて、夢を見てマサコ嬢が舞台に立つか立たないかの方が大事なんじゃないか。
夢を真っ直ぐに見据えて乾いた膣に煙草を燻らせる彼女こそ、最高齢にして最高に生きてるってことなんじゃないのか。
夢、なんてそんなものと心の奥でギシギシ閉じ込める僕とみわ先生より・・・マサコ嬢のが最高に人生謳歌しているんじゃないのか。
それを認めたくないから。
自分より、最高齢のあずきショーツのばばあが人生謳歌しているなんて認めたくないから。
みわ先生は結局苛ついたんじゃないかなぁと思う。
未熟だ。
でも当たり前だ。
だって僕達まだ生まれて50年もたってない。
「人のさいはて じっちゃんのちんちん」:育ての親?である祖父が亡くなった。
生殖器が、燃やせば骨にも残らないって、なんかすごい道理的なことだなって思った。
僕達は生きているから生殖が必要で会って、だから死んだらもうあとかたもなくなくなっちゃうのかなって思った。必要ないから。
そう考えると、生殖する。子をなすということはとてつもなく尊いことに思える。
28年間のなれはてが、これです(笑)
笑ってください。
笑ってください。
笑って、可能ならば、抱きしめて下さい。
一通り、読んで感じたことは、ああ「さいはて」なんてないんだ、ということだ。
僕達から見たらさいはてになる彼等にとっては、それらが普通の生活であり、決してそこが「さいはて」というわけではない。ナムにとっては金銭に困窮しない日本と言う国の存在自体がさいはて、なのだろうし。
ホームレスや性的仕事に従事している人々を「さいはて」と安易に呼ぶのは、それはかつて昔、白人が黒人の文化を野蛮なものとみなして奴隷化する行為に似ている。
無意識に己を上にたてていないか。優位にしていないか。
・・・ということを、この本を読んで初めて思った。
「さいはて」を「さいはて」と見ないみわ先生の紀行・・・だから「(みわ先生と僕から見たら)さいはて紀行」だけれども、本当はもっとふさわしいタイトルがあるんじゃないか、そんな気がしてきた。
「げんじつ紀行」「せいかつ紀行」、とか。ナム・ピカソ達の、現実・生活を僕達が覗いているにすぎないので。
でもまぁやはり僕を初め日本に国籍がある住む家がある多くの読者からしてみればそれは「さいはて」、一番伝わる分かりやすいタイトルなのかもしれない。
ハローハロー。
さいはての声がきこえますか。
きこえますよ。
だって私がさいはてで、だってあなたもさいはてで、だって今この瞬間がさいはてで
以上である。
普通に旅行記としても面白いんだけれども、解説でもふれているように、対象に限りなく接近して同じ目線で見ようとするみわ先生の視点が、最高にエモい。良かった。揺さぶられた。
続編無いのかしら。
続編希望熱望。
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解説を担当した都築先生の書籍の感想。
20220713
半年前に書いた記事をやっとこさあげました。この頃は前の職場に行き詰まって一ヶ月お休みをいただいていた時期ですね。鬱屈さがまるまるでている、我ながらいい文章だなぁと思いました。(自画自賛)
2022年夏現在のなれはては、支払ってない水道代、どうなるかなぁとハラハラしてます。面倒で支払ってない。