小さなツナの缶詰。齧る。

サブカルクソ女って日本語、すごく好きだったよ。

齋藤陽道『声めぐり』-君と直接会って話したい。-

 

 

 

 

聞こえなくても聞こえるよ。

声。

 

 

 

 

声帯震わせて喉から出るものだけが声とは思うなよ。

その言葉を発しているときのお前の眼差し、口元、えくぼ、肩、手、足・・・表情、全身が声なんだ。

 

 

齋藤陽道『声めぐり』(晶文社 2018年)の話をさせて下さい。

 

 

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【あらすじ】

手話は声だ。

プロレスの各党も声だ。

だれかとの抱擁も声だ。

まなざしも写真も声だ。

 

聾する身体をもつ写真家が、声と世界を取り戻すまでの珠玉のエッセイ

 

帯より

 

生まれつき耳が聞こえなかった作者は幼い時から発音教室に通い、普通学級で過ごしてきた。それは、息詰まる苦しい日々であった。

しかし高校時代から聾学校に通い始めた筆者は・・・。

前半はこれまでの半生を振り返る。

 

現在作者は、障害者プロレス団体に所属し、結婚し子供も授かった。

後半は近年の写真にまつわるエピソード群。

 

音声やことばでしか意思のやり取りが敵わないとしたら、あまりにも孤独すぎる

「皮膚の記憶」よりp.268

 

【読むべき人】

・聴覚に障害をもつ方

・聴覚に障害をもつ方の家族

・写真が好きな人

・コミュニケーションという言葉に突っかかりを感じる人

・手話に関心がある人

 

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いい帯だ。

 

【感想】

「POPEYE」の読書特集が発端だった。

そこでは「POPEYE的読書のススメ」よろしく、約20冊紹介されているコーナーがあった。著名人の誰かが選んだ、のではなく編集部が選んだ(であろう)、というところがなかなか珍しくどれどれどれどれと興味深く読んだ。

そのなかで気になる本は数冊あり、その中の一つが本書と同時刊行された「異なり記念日」である。

聞こえない夫婦間に聞こえる子供が誕生した。

日々のレポートというからへぇ、と思った。どのようにコミュニケーションをとるのだろう。育児で最も苦労するのは何だろう。どのような子供が育つのだろう。「聞こえない」親は「聞こえる」子供にどのように育ってほしいと願うものなんだろう。

全く予想がつかない。

という訳で、脳内の「いつか読んでみたい本」に追加されていた訳であるが・・・。

「おお!!??」

この度、なんと、静岡の超絶古本屋「水曜文庫」の野外の100円コーナーに、「異なり記念日」こそ見つけられなかったけれども、同時に刊行された状態もよい本書を発見したのである。これは買わなくてはなるまい。これは読まなくてはなるまい。ほくほく。と速攻入手、積み(数か月)、のお決まりの流れを経て読了した次第である。

いやぁ・・・にしてもなんで100円コーナーに並べたんだろ。店主の趣味に合わなかったのか何なのか・・・水曜文庫の野外コーナーこういうことあるから侮れない。

 

 

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結論結構面白かった。

というのもまぁ正直僕が今まで聴覚障害に関すること一切勉強してこなかった・・・というもあるのだけれど、結構読んでいて初めて知ったことが多かった。

 

例えば、差別。

21世紀になってなお「つんぼ」を口にすることに躊躇い無い人がいるということ自体にもドン引きしたが、それをわざわざ、こいつがしっかりわかるように罵りたい「悪意のことば」よりp.102と、一つ一つ口を大きく開けて発音する人がいるのは衝撃だった。

そうだ。

確かに、所謂「差別行為」をする人々は、「被」差別者にそれが絶対に分かるように絶対に伝わるように差別していることが多いかもしれない。

昔、白人が黒人を奴隷船に詰め込んだように。

クレーマーがレジの店員に対してタメ口をきくように。

いじめっ子がいじめられっ子を露骨に無視するように。

そのことに気づいて、はっとした。

 

例えば、手話。

「聴覚障碍者のコミュニケーション手段」に、僕の理解はとどまっていた。

手話が自分の気持ちと深くむすびついたものとして話せるようになるにつれて、素朴にありふれた「声」が言えるようになってくる。「声」を出すと、相手からも「声」が返ってくる。なんの曖昧さもなく、明確に伝わってくるものとして、その「声」は目に聴こえる。「夕日の原風景」よりp.22

手話は声だ。帯より

ああ、そうか。

手話は「声」なのだ。

手を動かすことで彼等は話しているのだ。

僕達と同じように。

僕が今まで思っていた「聴覚障碍者のコミュニケーション手段」・・・それはどちらかというと、イメージとしては信号に近いものだった。

お辞儀をしたら敬意を表す。

握手を求めたら合意を表す。

身体表現による信号の延長線として捉えていた。

でも違う。

手話は、「声」。

もっと生々しいものなんだと思った。

 

例えば、筆談の限界。

周りは音声で話をしている。何を話しているのか知りたいと思って、勇気を出して通訳や筆談をお願いする。そうしてありがたいことに何を話題にしていたのか書いてもらったりする。たいていそれらのことばは、短く研ぎ澄まされていて無駄がない。確かに、それで要件や内容の伝達は十分にことたりる。そう思う。そこに不満はない。

でもあれだけ楽しそうに、または深刻そうに、長々と話をしていたのに「たったこれだけなの?」と腑に落ちない。

コミュニケーションは、意味がある言葉だけで成り立っているのではなかった。「悪意のことば」よりp.108

僕はこれまで手話を覚えたい、と思ったことはこれまでほとんどなかった。身近に耳に障害を持つ人がいなかったというのもあるが、「同じ日本人なんだから、筆談で十分伝わるだろう」と思っていたからである。

だからこの部分を読んだ時、ハッとした。そうだ、確かに言葉だけでは伝わらない部分はたくさんある。無意識に僕達は視線表情身振り手ぶり声の強弱高低温度諸々合わせて、会話している。それら総てがたった数秒で書いた文字で、全て伝わる訳ない。

手話を勉強したい、の気持ちが腑に落ちた瞬間である。

ある種メールやラインとも似ているなと感じた。

「はい」。「うんうん」。「そうなんだね」。「またね」。「分かる」。「大変ですね」。

相手はどういう気持ちなんだろうか。分からない。何。悩んだ瞬間は数えきれない。

筆談によるコミュニケーションは、彼等に、あれよりさらに強い隔絶感を、与えているんだろう。

 

筆者は、撮影の際被写体となる人物の身体に触れるのだという。

「音声「だけ」を発しているときよりも触れるという行ないによって、ぼくらの語り掛けがぐんと実りあるものとして息づきはじめる。「皮膚の記憶」よりp.268

あの隔絶感を知ってるから。だからこそ触れることで、相手の「声」を受け止めようとする。全身でなるべく。細部まで。正確に。

「ペラペラと闊達に会話をしながら撮影するとような撮り方に憧れたこともあった」「皮膚の記憶」よりp.271とあるが、恐らくその「闊達な会話」こそが、筆者にとっては「触れる」ことなのだと思う。闊達な会話も身体に触れる行為も、被写体への接近という目的において方法が違うだけ・・・なのだと思う。

 

 

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その他にも、面白いエピソードはたくさんあった。

 

声。

「からだの声」

ダウン症の方の声は、からだを使う。例えば指で刻むリズム、等。そして自然と彼等の声は、相手にほの明るいものをもたらす。pp.178-182

「まなざしの声」

いぬのまなざしには、ことばでもなく、メッセージともいえない、何かが起こる前触れとしての声が乗せられていた。p.189

「声が咲く」

ドッグレッグス所属の女性レスラー霊子さんの指文字がひとつひとつ、花開くことについて。

「音楽の此岸から」

Mr.Childrenのライブを撮影するにあたり、筆者はもどかしい思いをする。

あんなに遠くにいて、あんなにちっぽけにしか見えない四人なのに、これほど大勢の人人間の共鳴を呼ぶ。それっていったい・・・・・・、どういうことなんだろう。p.202

耳に障害を持つ筆者だからこそ、歌の持つ力に対して純粋に考える。

 

 

 

声とは何だ。何なんだ。

声は耳だけで聴くものではない。声は全身で聴くものである。身振り手振り含めて総じて「声」とするならば、僕のこの喉から出ている音は何だ。声でなければ何なんだ。

 

 

 

近いうち、「KOE」という言葉の意味は変わる。もしくは、分離する。というか分離してほしい。

喉の声帯震わせるものは「声」。声だけでなく身振り手振り含めて相手に伝えるものは「こえ」。

喉の声帯震わせるものは「人音」(じんおん)。声だけでなく身振り手振り以下略は「声」。

といった具合に。

そうしないと僕が混乱する。

でもその混乱の先に、

より多くの人と対話が出来る社会への進化があるのならば・・・。

 

 

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いい帯だ。そのに。

 

聴こえないというバイアスなしに、自由自在に発言が出て、その評価がダイレクトに伝わってくることがうれしくて、毎日なにかしらの文章を書いてはネットで発信していた。ネットで滑らかに話せることに酔っていた。

けれどもネットで発する言葉は、大多数に域にいられたいがために、計算ずくでジャンが得たウケ狙いのことばだった。

けれども、そんないやらしいことばほど、ネット上ではいとも簡単に伝播していく。「すくわれる秘境の声」pp.237-238

 

ひょえっ・・ここまで言われちゃあ僕ブログ閉鎖しちゃうしかないよお・・・でもしないよお・・・。

このブログは主に「僕が忘れないために」を第一に書いてきてはいるが、それは決して忘れないようにしようと思う。まぁ多少見栄え良い言葉が並ぶことがあっても、そこはまぁうん、必要最低限の飾り立て、ということで甘く見てほしい。

過剰に飾り立てないようには常に注意しておきたい。

 

 

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以上である。

なかなか結構、うんまあ、面白い一冊だった。

ただまぁ仕方ないことではあるが、文筆業を生業としている方ではないため、おもしろさ重視で読むとちょっと退屈になるかもしれない。ヌルっと300ページ近くあるし。

ただ「コミュニケーション」「手話」「声」「耳が聞こえないこと」これらに関して少しでも関心があるのであれば、絶対おススメできる一冊。

 

 

「異なり記念日」も・・・まぁ積読激しい今では厳しいですが、いつか縁があったら買おうかしら。

 

 

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LINKS

 

「異なり記念日」が紹介されていたPOPEYE

 もう1年前かぁ~。

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