小さなツナの缶詰。齧る。

小説・漫画・雑誌の感想が主です。

角田光代『平凡』-「もし」なんていうのは、超リアルな御伽噺にすぎない。-

 

 

 

人生は分岐する。

人生は一つしかない。

 

 

 

角田光代『平凡』(新潮社 2019年)の話をさせて下さい。

 

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【あらすじ】

妻に離婚を切り出され取り乱す夫と、その心に甦る幼い日の記憶(「月が笑う」)。

人気料理研究家になったかkつての親友・春花が、訪れた火災現場後で主婦の紀美子にした意外な頼みごと(「平凡」)。

飼い猫探しに新味に付き合うおばさんが、庭子に語った息子とおにぎりの話(「どこかべつのところで」)。

人生のわかれ道をゆき過ぎてなお、選ばなかった「もし」に心揺れる人々を見つめる六つの物語。

裏表紙より

 

【読むべき人】

・30代後半~40代:主人公がその周辺の年齢の人が多いから

・自分が選ばなかった「もし」を考えてしまう人

・人生に閉塞感を感じている人

 

【感想】

沼津の古本屋「ハニカム堂」で買った。

100円コーナーに「お、角田光代ちゃんいるじゃん」と思ったのと、裏表紙の選ばなかった「もし」についつられて買ってしまった。

新潮文庫×角田光代だと、失恋連作短編小説「くまちゃん」しか読んだことないなああれには救われたなあと思い何気なく手にした一冊だったが、今回も深く僕の心に沈む一冊になった。

 

今回の小説の主人公は、30代~40代の男女である。未婚や結婚離婚等が絡んでおり、僕より全然人生経験値が高い。

そんな彼らがふとしてきっかけで、「もしあの時・・・」違う選択肢をとった自分に思いを馳せた瞬間を描いた短編集である。

人生経験値は彼等より浅いが僕にもその瞬間は山ほどあって、それに翻弄されて泣いたり苦しんだりしたこともあったから、こういう気持ちに一体どうやってけりをつけるのか。

「もし」にどうやってけりをつけるのか。

そのヒントをこの小説に求めた。

「平凡」。

それは、誰もが抱く感情であると肯定するかのような題名。

ヒントは6つ提示された。

 

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以下簡単に、各短編の感想を書いていく。

ネタバレもする。

一番気に入ったのは「こともなし」

 

「もうひとつ」

結局旅行は四人で行くことになった。私、正俊、野村こずえと福田栄一郎とで、ギリシャアテネサントリーニ島六泊八日の旅。p.9

途中から明らかになるが、夫婦と、その夫婦旅行についてきたW不倫アベックの話である。不倫って結構のふつーの話なのだろうか。27歳の僕のリアルでは未だに訊いたことがない。童貞(メス)だから、そもそも起きてても耳に入ってこないだけなのかもしれない。

かーなしー・・・。

閑話休題

この話で出てくる「もし」は、無論W不倫アベックの「もし2人が未婚のまま出会ってそのまま結婚していたら」である。もしくは「もし互いの離婚が順調にすんで2人添い遂げることが出来たら」である。2人は主人公夫婦に懇願しウエディングフォトの撮影や、指輪交換など結婚式もどきのことに付き合ってくれるよう懇願する。

ところがどっこい、このW不倫アベック・2人はことあるごとに喧嘩をする。何故この2人を連れてくることを了承したのか。主人公夫婦の間もなかなか気まずくなる。旅行は結論「楽しい旅行」というよりは「大変な旅行」という結果に終わる。

「もう一つの人生なんかないよ。(中略)きっとそんなものはないよ。自分の人生らしきものから、いかなる意味でも私たちは出ることはできないよ。だからそのおもちゃみたいな指輪は、もうひとつの人生を信じさせてなんかくれない。旅から帰って、きっと別の指にはめなおすであろうその指輪を見て思い出すのは、もうひとつの人生ではなくて、この騒々しくてみっともない旅だけであろう.。

私たちにあるのは、今、とそれ以外、だけだ。

私と正俊がいっしょにいなかったとして、という仮定は、もし私が犬に生まれていたら、という仮定と、なんら変わらないにちがいない」pp.49-50

旅行の終盤、指輪を交換する2人緒後姿を見て、主人公・二三子は思うのである。

おっとぉ、と思った。

おっとぉ。

「もし」のヒントを求めているのにもう初っ端から「もし」にケリをつけている主人公が出てくるとは思わなかったぜ。

確かに、「もしああしてれば」「もしこうしてたら」というのはもうありえないことであって、「もし犬に生まれていたら」「もし猫に生まれていたら」と同じこと。僕にあるのは、まさしく今、とその数々の選択をしてきた過去と、そしてまた数々の選択をしていくであろう未来だけ。

「もし」なんてものはありえない。

初っ端からばしばしぃっ!!!って雷に打たれたような気分になった。いやうすうす気づいていたよ。けれども「犬に生まれていたら、という仮定と、なんら変わりはない」とまで強く断言されると、その認めたくない事実を否が応にも認めざるを得なくなる。

「もし」なんてものは、一切合切ありえないものなのだ。

初っ端にすでに「もし」にハッキリけりをつけてる主人公の短編が、初っ端に来ている本書を読んで、思い出したのはこの言葉。

【結論を先に話しましょう】

塾講師で内定出て、在学中にウケた研修で死ぬほど聞いた言葉である。相手に物事を伝える時は結論から先に伝えなければならない。

二三子(、もしくは角田光代)「もし、なんてものはありません」

でもまぁ、「もし」に翻弄される人、けりをつけられない人が大半なので5つも短編がのちに続くわけですが・・・。

ちなみにこの短編、僕は読んでいて非常にいらいらした。総てを達観した二三子に対して、「もし」に翻弄されまくるこずえがわがままだから。夫婦旅行についてく、ってだけでもかなりのわがままなのにその後二三子夫妻を遠慮なくぎいぎい振り回す様はもう見ていて正直ストレスだった。最後、

「約束ね」と、こずえの言葉を繰り返した。こずえの服は、白い街並みに同化するように光を放っている。p.52

とちょっといい風に締めていても、いやいや、僕は許さない。顔につられて結婚。30超えてもすぐ泣く。W不倫得緒ずるずる引きずる。

いやぁ、結構ストレスフルだったね。主人公が大人びているのに対して少女めいて描かれている節もあるけれど、なかなかストレスフルだった。

そもそもなんだ。大学時代イケメンだからって結婚したのが馬鹿なんじゃないのか。しかもW不倫ってなんだ。自分のダメ旦那にはともかく相手の奥さんに悪いと思わないのか。しかも夫婦旅行についてくなんてどういう神経しているんだこの腐れビッチしねしねしねしねしね。

ので、正直僕はこの短編は、6つの中でワーストです。

二三子が赦しても、僕が赦さない。

 

「月が笑う」

泰春はある日突然、妻の冬美から離婚を切り出される。加えて、心乱れたまま迎えた年末年始休みに、自身の母親が訪れると言い出して・・・?

一番難解な短編であると思う。もしくは、僕が27歳。泰春は30後半。僕は童貞(メス)未婚。泰春はレス既婚。僕がメス。泰春はオス。違う部分があまりにも多いからかもしれない。

この話で出てくる「もし」は、恐らく「もし(浮気・妊娠によって)離婚を切り出した妻を許せたら」

その際に泰春は、幼少期事故にあった体験を思い出すのである。

あのねボク、ボクに痛い思いをさせた人を、許す?許さない?

(中略)

許す。

(中略)

でも、だれかを許さないと決めるのはひどく恐ろしかった。そのだれかもまた、ずっと許されないことになる。そんな重苦しいものを背負って自分もだれかも生きていくことになる。そんなのはいやだ p.90

許す、という行為は、相手は勿論自分自身も救う行為である。ということなのだろう。

確かに僕も数々の人生いろんな人を自分の中で許してきた。いじめてきた先輩達、パワハラをしてきた上司達、犬猿の仲だった友達等々。

でもその「許し」は、ほとんど「諦め」に近い形だ。これ以上憎んでいても仕方ないから許してあげよう。これ以上恨んでも自身のストレス過多になるから許してあげよう。多分僕の、心の脳味噌の本能が、折れた形で、そういう経緯になったと思うのだ。

僕にとって、「許す」は「諦め」だ。

だから、泰春の「だれかを許さないと決めるのは酷く恐ろしかった」から続く部分には正直共感は出来ない。そこまで怒りに対して冷静に考えて、他人を許すことは僕にはできない。

・・・正直、未だに「諦め」られない人が複数人いる。例えば、中学時代いじめてきた先輩たちの中の一人の石橋先輩。例えば昔から理不尽暴虐を尽くしてきた肉親・妹。現在の職場にいる面倒なお局。そういった人達にはことあるごとに「不幸になればいいのに」と思うようにしているし、もしくは極力距離を置くようにしている。

結局泰春は、冬美を許すことになる。けれど僕がもし泰春だったら・・・許せない。死産を願うだろうし挙句の離婚露頭の果てに迷った末のホームレス孤独死くらいまで恨むと思う。

僕は案外器が小さいのかもしれない。

よく「まぐろどんって優しいね」て言われるけどそれは違う。諦めやすいだけ、にすぎないよ。

 

 

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「こともなし」

「ピヨの今日も天下太平」のブログを書く聡子は夫・伸一と7歳になる娘・悠菜と3人で暮らす主婦である。

聡子は所謂「主婦ブロガー」である。家で作った凝った食事の写真を載せ、詳しいグルメを載せる。その際に起きたエピソードも併せて掲載。趣味は料理と裁縫。仕事も本当はファミレスのパートだが詐称して、趣味が高じて仕事となった洋裁関連、ということにしている。人気は上々。幸せいっぱい。順風満帆。

しかし聡子は伸一と順調な恋愛結婚をした訳ではない。望んだ妊娠で子供を授かった訳では無い。長く付き合っていた男・旭に振られてその後たまたま出会った伸一と身体を重ね、その際にできたのが悠菜という訳である。

だからといって、伸一に気に入らないところがある訳でもなく、悠菜も愛おしい。母性も感じる。

でも時々、日常の中でちょっとしたうまくいかないことがあると聡子は旭が不幸になれ、と思う。しかもそれは年々強くなる。独身であればいい。リストラになっていればいい。借金まみれになっていればいい・・・。

この話の「もし」は、「もし、旭と別れなかったら」

まるみ「ブログってさ、そいつらに読ませたくて書いてるわけだ?」p.125

中盤の聡子の親友の台詞である。旭に対して今自分が幸せであるというアピールをすることにより、旭自身の不遇であろう(あってほしい)境遇をより際立たせ、不幸を感じてほしい。後悔をしてほしい。悔しい思いをしてほしい。ざまあみろ。そのために書いているのではないか?

聡子「やだ、何その思考回路。黒すぎる。暗すぎる」p.126

聡子は否定するが、思い当たらないこともなかった。けれど、違う。今の生活をキラキラ二点こもった主婦ブログを書くのは彼等に読ませるためではない。

では何故か。

何故「今日も天下大平」なブログを書くのか。

後半島谷玲香の職場に突然訪れたり、年下のパート仲間の恋愛相談を経たり紆余曲折を経てようやく気付く。

聡子「でもさ、『もし』なんてないのよね。そりゃ誰もが思うんじゃないの。あの人と分かれていなければ。結婚していれば。子どもできていなければ。仕事やめていなければ。仕事やめていれば。どこにいたってぜったい、選ばなかったことのほうを想像する。」

紀実「へえー。天下大平でもそんなこと思うんすか」

聡子「だって幸せじゃなきゃ困るじゃない」

紀実「困るって、だれが?」

聡子「・・・・・・私がよ」

そうだ。聡子はぱちぱちと瞬きをする。今の日々が充実しているとブログで知らせたいのは、別れた男でもその原因の女でもない、「もし」で別れた、選ばなかった私自身だ。pp.134-135一部省略

キラキラブログは、選ばなかった「もし」を生きる自分達に向けて書いたものだと。旭と別れなかった自分、軌道に乗った仕事をやめなかった自分、旭と添い遂げた自分、伸一と出会うも身体に頼らず健全に交際を重ねた自分、望まぬ妊娠で堕ろした自分、伸一と2人で暮らしている自分、もしくは伸一とも別れ一人で仕事に邁進している自分・・・並行して生きているであろうあらゆる自分に対して「私が一番幸せです!」とアピールするために、聡子は多少の嘘をも織り交ぜてキラキラした主婦ブログを書くのである。

「もし旭と別れなかったら」、今ある幸せは手に入らなかった。そして今の方が絶対に幸せ・・・なはずなのである。

僕はこのブログは、主に「記録」するために書いている。もしくは感想を伝えるため。小説漫画映画等読んだ後様々な感想が思い浮かぶけれどそんなの長々とリアルで語ったところで聞き手がうんざりしてしまう。それをここにぶつける。文章なら多少は理解してもらえるであろうから。ブログなら多少は関心のある聞き手(読み手)が聞いてくれるであろうから。

だから、よくある主婦のキラキラしたブログは甚だ疑問だった。なぜ彼女達は何故あんなにキラキラしたものにこだわるのだろう?自身を良く見せたいようなブログを書くのだろう?ビリヤニ・パエリアよく分からん料理を作るのだろう?無印・IKEAなのだろう?

それに対する、答えがバッチリと提示されているのが良かった。今自分が幸せでなきゃ、彼女達は困るのである。今一番自分たちが幸せであると宣言しなくては、無限に分裂する「もし」にけりをつけられないからである。

ましてや、仕事をやめ家庭に入り、母として妻として日々を過ごす女性ならば尚更。「仕事辞めてなかったら」「結婚してなかったら」「子どもを産んでなかったら」。

僕はこの短編を読んで目から鱗がボロボロ落ちるようだった。そうか、今自分が幸せであると宣言するために、言い聞かせるために、彼女達はあんなにも必死に毎日キラキラを装って撮って書いて生きているのか。

すると・・・今まで鼻についていたキラキラブログがなんと愛おしく見えてくることか。健気に見えてくることか。うう。

そしてやっぱりキラキラブログ界のカリスマ・辻希美とかも「未婚のままもう少し芸能活動を続けていたら」とかやっぱ思う時があるのかなーと思ったり。

永遠の謎であったキラキラブログ、その謎に対して作者の考察が刺さるようになされていたのが良かった。概ね的も射てると思う。

ちなみに、僕は本書における「母性」の捉え方がとても好き。

母性と言うのは、抱きしめたいとか、頬ずりしたいとか、噛みつきたいとか、そういう気分ではなくて、この、泣きたいよう気分のことを言うのではないかと聡子は思うことがある。p.105

 

「いつかの一歩」

徹平は、かつて長らく付き合っていたみのりが運営しているという、居酒屋に、意を決して一歩、踏み入れた。

この話における「もし」は、無論「もし、みのりと結婚していたら」。徹平は結婚をにおわす年上のみのりと、結婚をすることなく長らく付き合った挙句、みのりから別れを切り出されるに至った。年下の徹平は徹平で、結婚生活に不安を抱いていたのである。うまくいかなかったらどうしよう。

今考えてみるに、結婚というものは、うまくいくかどうか、などという問いが思いつかない時点でしてしまうべきだ。あるいは、二年も三年も、うまくいくかどうか、などと考えるべきことではない。p.151

その後別の女性との離婚を経た徹平はより一層思うことになる。「もし、みのりと結婚していたら」。

結論から言うと、この作品は二人の関係がまた親密になるであろうことを匂わせて終わる。こんな「もしもし」男どうかと僕は思うがまぁ年上からしてみればそういうとこが可愛いって思うんだろう。

そしてこの作品で一番印象に残ったのは、終盤のみのりの言葉。

みのり「ひとつなければ、次の一つもなくて、そうしたら、またぜんぜんべつのところにいってるんだなあーって、しみじみ思うのよね」p.171

みのりは徹平と別れた後別の男と付き合うが、前の料理上手の彼女と比較されるため料理教室で料理の腕を磨き資格を取るまでに至る。そして居酒屋なら単身女性でも生きて行けるではないかと店を開くに至ったという。

徹平と結婚していれば、次の男と付き合うこともなかったし、居酒屋を開くこともなくまた全然別の人生を歩んでいた、ということだろう。

ただ、居酒屋経営と結婚は必ずしもどちらかを選ばなきゃいけないものなのか?両立は不可能なものなのか?居酒屋経営しながら結婚することも無論可能なのである。

だから最後、2人はちょっと近づいたんでしょう。爆発しろ。

ちなみに僕は、今現在に全く満足してない。大卒なのに申し訳ねえフリーターだしフリーターの一人暮らしだからお金は無いし母親は大病・肺癌でもうなかなか辛いところがあるし。

あのみのりの言葉は、今現在にちゃんと満足している人だからこそ出てくる言葉だと思う。僕もみのりの言葉が言えるような30代になりたいものですなあ・・・(遠い目)。

 

 

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「平凡」

平凡な暮らしをする主婦・紀美子のもとに、料理研究家として有名になったかつての親友・榎本春花が東京から来ると言う。

この話の「もし」は主人公の紀美子目線ではなく、春花目線の「もしあの人と付き合えたのが私だったら」だと思う。きっと平凡な暮らしをしててきっと毎日つまらない思いをしているはずだ。それを確認しに行ったのだろう。

ネタバレすると、終盤紀美子と春花が高校3年の時に同じ人を好きになったことが明らかになる。恋を実らせたのは紀美子であり、その相手が現在の夫となる。一方春花は卒業後上京した。そして30を目前に料理研究家として有名になりメディアに引っ張りだこになる。

そして春花は、かつて付き合っていた世帯持ちの男と同姓同名の人物がこの町で焼死したという事件を新聞で読み、故郷に再びやって来た・・・・。

ことになっている。

けれど、だが、しかし、いや・・・

いや、まさか。春花がたしかめにきたのは、別れた男のことだけではなくて、私のことも、であるはずがない。私が不幸になったかどうか見にきたなんてはずがない。p.218

けれど実際は、紀美子が平凡に暮らしているのを見に来るのが春花の第一の目的だったのではないか。春花本人の自覚があるにしろないにしろ。

紀美子「ねえ、ハルちゃんひとつだけ訊いてもいい」

紀美子「ハルちゃん、どこまで望んでたの、どこまでの不幸ならよかったの」

春花「平凡」

紀美子「え」

春花「ど平凡」

春花はくり返しにっと笑った。

春花「腐るくらいの平凡が不幸って、なんとなく思ってたけど、それも違ったね。だって私、ほんものの松山大介がどこかできっと平凡に生きているって今日知って、心から安心したんだもん」

紀美子「平凡じゃないかもしれないよ、波乱万丈かも」

春花「うん、だからさ、死んでなんかいないで、波乱でもなくて、平凡に生きていてほしいって言うのはさ、呪いっていうより願いに近いよね。無関係になると、願っちゃうんだね。どっちにしても、その人の人生には届かないって今日、わかったけど、あっ、もうそろそろホームいかないと」pp.218-219

僕は思い返す。

僕が未だに赦せない人達。

例えば石橋先輩。石橋先輩は中学の時僕をせせら笑った人である。眼鏡をかけて色白だったが性格の悪さが顔ににじみ出ていた。

例えば妹。わがままで感情が高ぶると抑えられない。反抗期は大変だった。僕の物を勝手に盗む。「いつか犯罪犯しそうで怖い」裏で母親がため息をついていたが僕もそう思う。

2人が不幸になれ、とは思うが、火事で焼死しろ、とまで思うか・・・と言われると違う。借金まみれになって身体をも売らなきゃいけなくなってズブズブ闇に落ちてほしいか・・・と言われると違う。ウシジマくん案件・・・違う。

じゃあこれは。

この、僕のことあるごとに思う「不幸になれ」という呪いは、祈りと同義だというのか。僕と関係のないところで平凡に生きていろ。

春花「腐るくらいの平凡が不幸って、なんとなく思ってたけど、それも違ったね。」p.218

何を知って春花はそう思ったのか。

それはきっと元恋人が生きているという根拠のない報せ・・・ではなく、紀美子が専業主婦として平凡に暮らしている様を知ってそう思ったのではないか。

春花が、ずっと願っていたのは紀美子の不幸ではないのか。

「平凡」。かつては雑誌の題名になったこの言葉だけど、改めて意味を深く考えさせられる一遍だった。

ちなみに。

本作における春花といい、「いつかの一歩」の徹平といい、「もうひとつ」のこずえといい、「もし」に執着する人物は若干幼く感じることが多い。良くも悪くも。

反対に、「いつかの一歩」のみのりといい、「もうひとつ」の二三子といい、「月が笑う」の終盤の泰春といい、「もし」とうまくけりをつけた人物は大人びているように感じる。

「もし」とうまくけりをつけて自分の今を必死に生きるってのが、本当の大人ってやつなのかもしれない。

 

「どこかべつのところで」

逃げた飼い猫を探す庭子と出会った、依田愛が話してくれた息子とおにぎりの話

「もしあの日窓をきちんとしめていたら」を何度も繰り返す庭子は、「もしあの時おにぎりを作って渡さなかったら」の話を依田愛から聞く。

依田愛の「もし」は本書において一番重い。もしおにぎりを作って渡さなかったら、息子は、死んでいなかったかもしれない。

今までの「もし」がかすんで見えるほど重い「もし」に、依田愛は

「おにぎりの日からね、私、二人になった気持ちでいるの」p.246

おにぎりを作らなかった彼女は、作った依田愛と同じように年を取る。スポーツクラブに入会し毎日通い、上手くいかない夫との関係を修復のため退職祝いに旅行に行く。3年前には息子が恋人を連れてくるが余は気が強くなかなか合わない。しかし夫はそこは寛容で依田愛は、夫に対して「どうでもいいって思ってるだけのくせに」と思っている。結婚後息子夫婦はマンションを購入頭金を互いに出したのに相手方の実家である千葉に家があるのが気に食わない。夫と息子にも過干渉だとなだめられ、新聞の人生相談に応募市債寄す荒れるもおおむね同じ旨。女友達と国内旅行を繰り返しつつ今は地方出身者同士東京に墓を作るか否か夫と2人で話し合っている。pp.246-247より一部省略、要約

庭子「なんていうか、そっちのもうひとりも、なかなかたいへんですね」

依田愛「そうなのよ。だって生きているから」

依田愛「どこかべつのところで」pp.247-248一部省略

僕達は、何歳になっても大人になっても、いつか、

本当に人生においてけりをつけられない「もし」に出くわすことがあるのかもしれない。

自分が起こした、取り返しのつかないたった一つの「もし」。後悔をしてもしきれない。身をつんざくような「もし」。

そうしたら、僕達はもう、諦めて。「もし」を並行して生きる自分に拠り所を求めても良いのではないか。

どこかべつのところで生きる、自分に。

結局猫は見つからないが、依田愛との交流を通して、庭子は少し慰められる。物語はそこで終わる。

本書の最初の短編「もうひとつ」の主人公が、とっくに「もし」にけりをつけているのに対して、最後のこの短編の主人公が「もし」にどうしてもけりをつけられていないのが印象的だった。そしてつけられていないからこその、生き方をしているのも。

 

30代40代・・・が最も多いかもしれないが、僕達は人生に幾度となく思う「もし」。それにけりをつけて生きるヒントを僕達は永遠に探してる。

そんな僕達は平凡。

 

泰春の母「ああ、あの時追っていかなければ、私の人生、全然違ったんじゃないかって、また思っちゃったってわけなのよう」p.88

 

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以上である。

主人公が僕より年上の為共感できない部分も多いのかなあとか思ってたけどそんなことはなかった。

「もし」に翻弄されるのは誰もがそうであり、けれどその「もし」はもはや実在しない非常にリアルな御伽噺に過ぎず、だから僕達は僕達の人生の今を必死で生きるしかない。

どの短編にも印象に残る登場人物の台詞があって、恐らくそれを僕はのちに思い出したり、僕の人生の一つのヒントにもなりえる、気がする。

 

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LINKS

最近読んだ角田光代。やっぱどれもいいですね。

 

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