まぁ若干SFチックになるのはしゃーない。
あとブラックジョークになるのもしゃーない。
筒井康隆『自選短編集 鍵』(角川書店 1994年)の話をさせて下さい。
【あらすじ】
かつての住居で、放置された机から見つかった古い鍵束。
その中に、見覚えはあるが何の鍵だか思い出せないものがある。
しばらく考えいこんだ後、脳裏に甦った寒い思い出……。
鍵に秘められた不可思議な力に導かれ、自らの原体験へと遡る表題作を初め、日常に潜む恐怖を独自の感性と手法で綴る著者初のホラー短編集。
裏表紙より
【読むべき人】
・筒井康隆が気になっている人
・SF短編、ホラー短編が気軽に読みたい人
・星新一が好きな人
・NHKの公共放送料金支払っていない人(「公共伏魔殿」)
【感想】
静岡駅前からちょっと歩いたところにある古本屋・太田書店のお外の100円コーナーで買った。
筒井康隆まぁまぁ気になっていたし、100円だし、ホラー好きだし、100円だし、一冊に一つの物語が入っている携帯よりも短編集のが好きだし、100円だし、と買わない理由がなかった。
そしてそれは正解だった。
ただまぁ、筒井康隆。「時をかける少女」「残像に口紅を」等の筒井康隆である。SFの三大作家?とやらにも数えられているあの気難しい爺さんである。(他二人は星新一と小松左京らしい。成程)
「ホラー」といっても純粋なホラーではない。
ある短編ではブラックジョーク、ある短編ではシュール、ある短編ではSFと、ジャンルが多岐にわたる。世界観も時代も設定もバラバラ。
所謂僕が求めていた「ホラー」なんてものは、表題作の「鍵」「母子像」くらいなものか。
他は期待してたのとなんか違った。インド人が増えたり地下に繰り広げられる未来都市の話だったりNHKの秘密だったり大槻ケン「ジ」ディスであったり、そういうのはまぁうんちょっと違った。
でもまぁそこはさすが筒井康隆。その分「次はどんな話なんだか」と気づけばぐいぐい引き込まれるように読んでいて、気づけばあっという間に読破しておりました候。
以下簡単に各編の感想を記しておく。
「鍵」:ルポ・ライターとして成功した主人公はひょんなとこから見つかった鍵に導かれ・・・
一番初めで一番ホラーしていた作品。
最後唐突に現れる忌々しきバッドエンドにそう来るかと思った。
にしても「鍵」、というタイトルなのは所謂「閉ざした記憶の鍵」という意味もかけてるんでしょう。
普段全く思い出すことはないけれども、ほんのふと、ほんのふとしたきっかけで思い出す記憶達・・・。思い出したくないこと、認めたくないこと、忘れてしまいたいこと、もう考えるだけで怖気がはしるようなこと・・・。
普段は南京錠よろしく物凄く硬い封がされているけれども、ふとした時に触れて一気にあふれ出し、正気すら保っていられないような記憶群。
それらは黒い直方体の箱・ブラックボックスに入っている。
そしてそれは太い鎖で四方八方縛られていて真ん中に南京錠がぶら下がっている。
それがぷかぷかと無数に浮かぶ空間を、人間なら誰しも持っていると思うのだ。
その「鍵」はどこかにあるはずだけれども、基本的には見つからない「ように」なっている。見つけて開けてしまえばその空間の神・・・所謂人間が正気を保つことが不可能になり全部全部が揺らいでしまうからである。
でもその鍵を、ほんのふと、ほんのふとしたきっかけで、見つけてしまえば・・・その空間はあっという間に闇に呑み込まれあらゆる情報がとびかいあらゆる絶望が飛び交いあらゆる恐怖浸され空間を維持することが出来なくなり脳は永遠にエンドロールエンドロールすることでしょう。
まぁそういった短編である。一番初めの作品で、結局これが一番僕には怖かった。
「佇むひと」:歩きながら私は、ああ、パンでも持ってきてやればよかったな、と思った。公園には、私の好きな犬柱(いぬばしら)が立っているのだ。p.35
冒頭1ページ目にこの記述があった時「お!鬼滅やんけ!」と思ったけれど違った。
詳しく言うとネタバレになってしまうので言えないが、まぁざっくり言うと「柱」とは最終的に「植物」になる生物である。それに合った造語らしからぬ造漢字があるのはちょっと驚いた。
そして「犬柱」があるのだから無論「人柱」も、といった話。「佇むひと」の「ひと」とひらがななのはもうそれが「人」ではないからだろう。
その世界で生きる小説家の話なのだけれども・・・終盤の切なさはたまらない。
いっそのことそれなら、死んでしまった方が楽なのにとすら思うような、痛切な終わり方。
斬新な設定だけでなく、その設定の上に大きいドラマチックを生み出すから、筒井康隆は「筒井康隆」なんだなぁと思った。
もし僕の恋人・夫になろう者(実在するかどうかはともかく)が人柱になろうものなら、きっと毎日抱きしめに行くだろう。そして主人公のように人畜無害となったパートナー、そして柱にならないよう人畜無害ならざるを得ない自分を哂って、やっぱり似たような歌を口ずさみながら帰って寝てそっと枕を涙で濡らすのだろう。
気づけば2020年、今の日本も人柱がたくさん立っている気がする。
僕は人間か?君は人間か?気づけばほら、だんだんと爪先が緑色になってきたりはしていないか?
無限効果:宣伝課長の大森は、自社の社長から精力剤が売れないことについて永遠叱咤されたので・・・。
サブリミナルを使った作品。今でこそ使い古された言葉であるけれども、この作品が発表されたのは1961年(60年前)。さぞかし新しく鋭利で恐ろしい強度を持った言葉なのだろう。
というか60年前の小説でも、こうやって面白く読めるのは凄い気がする。多少の差別用語はあれど全然普通に読めるし、多少の鮮度は落ちようど全然普通に楽しめる。
40年たったらこの作品は100年前の作品になるけれども、それでも全然まだ僕は普通に読めるような気がするのだ。まぁその時僕も68歳なんですけど。
成程。
老人が文豪の作品ばっか読んでいる印象が強いのは、このためか。
公共伏魔殿:視聴覚文化を蔑む「おれ」は、受信料を支払うのを拒否していたが・・・。
そしてこの作品が発表されたのは1967年。54年も前の話である。
のに、もうここで受信料未払い問題が発生していて、それを揶揄する作品が誕生していようとは。受信料問題こんなに歴史が長かったのかよ。まずそこで僕は笑顔になった。
そしてそこから繰り広げられるNHKの恐ろしき実態の数々・・・終盤なんてもうおぞましい。NHK、恐ろしやと、僕は満面の笑顔になった。
2020年現在でも鋭い強度を持って刺さるブラックジョーク短編である。
受信料未払いの人にこそ是非読んでほしい。絶対払うものか!!!
池猫:小学生の時に子猫を池に捨てていたが・・・
2ページ余りの短編である。最後のシーンは想像するとまぁ恐ろしいと言えば恐ろしい。
けれども「猫ブーム」の昨今、読めばそんなに怖くはない。むしろ可愛い。
ちょっとしたモルカーの猫版でしょ?にゃんにゃーん。
死にかた:その日突然、オニが会社にやって来た。 p.100
そしてそのオニが次々と会社勤めの男女を淡々と殺していくというそれだけの話である。ただ皮肉かなそれぞれの死にかたに、それぞれの生きかたが反映されている。その比較を楽しむ作品。
読み終わった後には思わず、「自分だったらどういう死にかたをするだろう」と考えずにはいられない。僕だったら「こんなのファンタジーだ!!!嘘!!!認めない!!!」と最後まで大声で泣いて叫んでいるような気がする。
容赦なき淡々と進むシュールな展開、容赦なきスパッと終わる結末は、結構前に読んだ筒井康隆の中編「走る取的」を思い出した。
ながい話:おたね婆さんというとんでもなく話が長いとんでもないババアがいた。
今作が角川ホラー文庫から出ているということは、ババアの長々しい愚痴程恐ろしいものはないという認識で宜しいでござんしょか。
まぁ祖母見てるとそれは一理あると思うのだけれども。
都市盗掘団:埋蔵財貨の盗掘に就職した齋藤は、恋敵と台湾へ盗掘しに行くことになった
今とは全く印象が違う、発展途上むき出しの台湾を舞台にした作品。土臭い雰囲気を楽しむ映画のような。
ただ、椿との関係性をあらわすためか、前半の時さんとの恋愛描写は妙に長く感じられた。後半出てくるのかなと思ったらそうでもないし。なんだろう。何かの元ネタあったりするのだろうか。
衛星一号:彼が知っているのは、彼自身がこの世界にせいぞんしているということと、彼が乗っているのが父親の背中であり、彼の背中に乗っているのはが彼の息子であるということだけである。p.148
この短編読んだ人に僕は聞いてみたい。「彼」をどのような生物で想像したか。僕はガマガエル。
あと「衛星一号」というタイトルの意味に今気がづいた。要するに永遠に血統が回転し続ける存在・・・すると彼達の生命の輪は天地・重力と逆らって築かれていることになる。
非常に絵画的で考える余地があって不思議で素敵な一遍。
未来都市:地下交通局に「地下三十二区H7番地の岡村」から電話が繰り返しかかってくる。
筒井康隆より星新一に近い気がした。いや。星新一の作品だったら何かしら最後に救いやどんでん返しがあるものかもしれない。
その期待を裏切って、絶望的終着に直行するのが筒井康隆なのかもしれない。
怪段:夜11時を過ぎると、その階段には幽霊が出るという
あっさりとした短編である。結末もまぁでしょうね、としか。
ただ主人公はその日死んだはずであるのに、以前から幽霊のうわさがあるというのはどいういうことなのだろう。それだけ少し気になった。
これだけ正直、何故選ばれたのか分からない。
くさり:盲目の少女は、生物学者の父と共に2人で暮らしている。
これも星新一の短編「月光」を思い出した。
美しい娘と、その保護者であるおじさんの閉じられて密接な濃厚な日々・・・。
ただ「月光」が終始耽美に傾倒しているのと違って、「くさり」は後半どんどん「腐り」、生臭くなっていく。そしてその美しい娘が「美しい」娘なのかすらも怪しくなっていく。
けれどもせりふ回しは後半もまるでメロドラマのようにロマンティック。
「パパ。この部屋で、わたしの髪を褒めてはいけないわ。ママが見てるのよ。パパは、ママも愛してたんでしょう。ママが怒るわ」p.189
さて、この短編のタイトルは「くさり」だけれども、一体何の鎖なのだろう。
序盤主人公が猫を繋ぎとめておく「くさり」、パパが恐らくは亡くなったであろうママの残影から逃れられないであろう「くさり」(序盤この男が主人公に猫をあげ続けるのは、生前女が猫が好きだったからだと思う)、最後の主人公がからめとられる「くさり」、それとも主人公を作り上げるのに至ったDNAの螺旋の「くさり」・・・?
様々な解釈が出来る秀逸なタイトルであると思う。
ふたりの印度人:電車内で目が合った印度人が追いかけて来たぞ!!
作品が発表されたのは1968年。52年も前のことである。多少人種差別的なのは仕方ない。そして当時「印度人」なんて一体何考えているのか分からない存在だったのだろう。
不可逆的シュールギャグな結末にはちょっと哂った。なぜそうなる。
魚:若い夫婦とその子供は、興味本位で川の中州に行くことにした。
幼き妻の言動にイライラさせられる一遍。多分絶対女性作家には書けない。「若い女とはこういうものである」と女性差別を思わせるくらいの妻の愚かさよ。
ただ終盤、その女を妻として娶った男の幼さ・わがままも描かれているのが良かった。
いや、女だけでなく男も馬鹿っぽく描けや!!とかそういう単純な話ではなく、何か若さの愚かさ・幼さ・我儘そういったものすべてが詰まっているように感じられたのである。
母子像:妻と赤ん坊が唐突に行方不明になる。そして時節聞こえる赤ん坊の泣き声。
古い館にて繰り広げられる美しい奇譚とでもいうべきか。
最期の永遠なる美しさ・・・。
多分赤ん坊は「男の子」であるし、今作はキリストとマリアの母子像を想定して描かれたのだと思う。もっとも有名のだとラファエロか。まぁあれ両方とも目見拓いてはいるんですけど。
でも僕が何となく思い出したのはカリエールの母子像。館の雰囲気も相まって、ぴったりじゃない?
ウジェーヌ・カリエール《母子像》(1890年頃)
新国立美術館にて開催されたブダペストの美術館展にて生で見た。
早く東京の美術館にも気軽に行ける環境になってほしい。
二度死んだ少年の記録:少年の飛び降り自殺の新聞記事の時間差に疑問を抱いた著者は現地にて調査を行った。
舞台は兵庫県である。
どうやら兵庫というのは今も昔も教育が恐ろしく荒れているらしい。この作品で知ったが、女子高生の頭が校門に挟まって亡くなった事件も兵庫なんだそうな。まじか。昔からダメだったのかよ兵庫の教育。
そして本編の少年が自殺したのも結局は原因が「いじめ」。激辛カレーは残念ながら出てこなかった。
前半は大槻ケン「ジ」の唐突なディスりや、教師と作者の会話劇など結構クスリと笑えるところが多く、なんかスラスラ読んでしまった。
是非2021年筒井康隆大先生には「二度死んだ教師の記録」を兵庫の小学校へ調査しに行って書いてほしいのだけれど、どうだろうか。
冒頭は誰を如何様にディスるだろう。
以上である。
結構楽しく読めた。まぁ期待してたホラーとは違うけれどやっぱり名前が知れた作家は違うわね。と思わせるものがあった。
これからも古いからと言って敬遠せず、ぴんときたものは躊躇なく手に取って読んでいきたい。
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LINKS
このブログで扱った「母子像」の画像はwikipediaの以下のページから拝借した。
同時代(1990年代前半)にでた阿刀田さんの自選短編集。
実家にある。これも50年前60年前の作品多かったけど面白かったなぁ・・・。
他に読んだ筒井康隆の作品。
独特な文体の為嫌いな人もいるだろうけど、でも慣れればスラスラ読めるし、この短編集も、この殺人事件もこの旅行記も総て面白かったのでおススメ。